神算鬼謀の智将!司馬懿とは!?

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さて、今回は魏の軍師の中でも数多くの功績を残してきた智将をご紹介いたします!一緒に学んで人生に活かしましょう!

三国志シリーズより

「ほう、我が策に対応するか。面白くなってきおったわ。」

英雄名

司馬懿(しばい) 字:仲達(ちゅうたつ)

生 涯

父:司馬防の次子で、殷王の12世孫にあたり、高官を輩出した名門の出身で、司馬懿自身幼い頃から厳格な家風の下に育ちました。

兄に司馬朗(伯達)が、弟に司馬孚(叔達)、司馬馗(季達)、司馬恂(顕達)、司馬進(恵達)、司馬通(雅達)、司馬敏(幼達)らがおり、司馬家の8人の男子は、字に全て「達」が付いており、優秀な者ばかりであることから、「司馬八達」と称されておりました(それは、単に八人の「達」たちということでなく、「八人の達人」という意味合いがございます)。なんなんだ、この一族・・・恐ろしいな。

妻に張春華(ちょうしゅんか)、息子に司馬師、司馬昭らがおります。

司馬懿は若い頃から聡明かつ才能が溢れていることで知られ、優秀な人物が揃っていた司馬八兄弟の中でも、特に優れた人物といわれていました。

はじめ、司馬懿の才能を聞いた曹操によって出仕を求められますが、司馬懿は漢の命運が衰退していることを知り、曹氏に仕えることは望まなかったため、病気を理由にこれを辞退しました。その後、曹操が丞相(=大臣)となり、司馬懿を「捕らえてでも連れてくるように」と命令したため、やむを得ず出仕しました。

出仕当初は文官として公子たちに仕えていましたが、才能が溢れ出すぎて、徐々に軍略の献策などで認められるようになっていきます。

217年、曹操は優秀すぎる司馬懿を警戒していましたが、後継者:曹丕は司馬懿を気に入っており、親しくしていました。司馬懿も、軽はずみな行動は等せず曹丕に仕えたため、絶大な信頼を得ていました。

219年、関羽が荊州から北上して侵攻してきました。この時、関羽に呼応する者が相次ぎ、曹操すら慌てふためいて遷都を考えるほどでした。司馬懿は、冷静な態度でそれに反対すると、孫権の勢力とともに関羽を倒すことを献策し、見事に成功させました。この年に、厳格だった父を亡くしています。

220年に曹操が亡くなり、曹丕が魏王に即位して、魏の皇帝となりました。司馬懿は曹丕に重用され、どんどん昇進していきます。

226年、曹丕が死去し、曹叡(明帝)が皇帝に即位した。曹丕は、死の間際に曹叡の補佐を司馬懿に託しました。即位した曹叡は父の代からの重臣であった司馬懿を引き続き重用しました。同年、侵攻してきた諸葛瑾、張覇らを破り、この功績により更に昇進しました。

228年、孟達という武将が蜀の諸葛亮と内応して魏から離反します。司馬懿が赴任していた場所から孟達の任地である場所までは、通常の行軍で1ヶ月はかかる距離があります。司馬懿は丁寧な書簡を送って孟達を迷わせ、昼夜とわずの進軍を強行し、なんとわずか8日でそこまで辿り着くとこれを破りました。この電光石火の対処に諸葛亮ら蜀漢はひどく動揺したのでした。こりゃあ、日本の秀吉が行った中国大返しもビックリですなぁ!!

230年、数々の功績が認められ、ついに大将軍に昇進しました。

231年より、ついに蜀漢の諸葛亮と勝負していきます。その戦いは一進一退の攻防であったと伝わります。

234年、諸葛亮が5回目の北伐(五丈原の戦い)を行うと、この戦いで司馬懿は、防衛に徹します。諸葛亮も持久戦の構えをとり、司馬懿と長く戦う準備をしていましたが陣中にて病死してしまい、蜀漢軍は撤退を余儀なくされます。

三国志シリーズより

238年、遼東を本拠としていた公孫淵が反乱を起こし、司馬懿は征討を命じられます。公孫淵討伐に向かった司馬懿は、軍略を用いてこれを撃破。反乱した者から戦乱を逃れてきた者まで反乱の可能性が少しでものある者達(約7000人)すべてを処刑しました。

239年に曹叡が死ぬと、曹真の長男:曹爽と共に次代の帝:曹旁の補佐を託されました。

権力の独占を狙う曹爽の画策により、司馬懿は名誉職に転任させられました。ですが、軍権はそのままで、変わらず対蜀漢の最前線を任されていたので、曹爽が内政を、司馬懿が軍事を分け合う形で治めていました。

当初は曹爽が先輩である司馬懿を立てていたために、大きな混乱はありませんでしたが、244年に曹爽が行った蜀漢への侵攻は失敗し、撤退時に大きな損害が出る事件がありました。司馬懿はこの失敗を予測して反対していたので、これ以降両者が対立してしまいます。

その後、曹爽一派は傲慢になっていき、徐々に司馬懿と衝突するようになってきました。司馬懿の発言は聞き入れられず、その結果魏は大損害を何度も出してしまいます。その様なことが積み重なって、247年、司馬懿は70歳近い高齢と病気を理由に引退を表明しました。

しかし、曹爽が自分を警戒しているのが分かってた司馬懿は曹爽一派の前で芝居を打ちます。一派の部下が見舞いのために訪ねてきたとき、相手が言ったことをわざと聞き間違えたり、薬を飲むときにダラダラとこぼすなどして、ボケ老人の姿を見せたのです。・・・このジジイ、やりおるわ。

249年、曹爽が曹叡の墓参りに行くため洛陽を留守にしたときを狙い、司馬懿はついに動きます。司馬懿は上奏して、曹爽兄弟の官職を解任する令を得ると、司馬一族に洛陽の宮城を制圧させて、令を用いて洛陽の曹爽陣営と洛陽を制圧しました。続けて司馬懿は、免官するだけですと曹爽を説得して、戦わずして降伏させました。しかし、しばしの監禁の後、曹爽らに謀反の企みがあったことを理由に、結局は一族郎党皆殺しにしてしまいました。

251年、曹氏の実権を取り戻そうとする反乱を素早く察知した司馬懿は、その証拠を握ると、硬軟両面で首謀者を追い込み、降伏させました。この事件の後、魏の皇族すべてを曹操時代の魏都に軟禁して互いに連絡を取れないようにしてしまいます。

ここにきて、ようやく司馬懿は魏における全権を握ることとなりましたが、自身は同年に死去し、遺言によって首陽山に埋葬されました。息子達に「国を治めるために慎重に動け。」との言葉は受け継がれ、後に孫の司馬炎が魏より禅譲を受けて晋を建国することとなります。

エピソード

・司馬懿は苛烈な性格であったものの、感情を隠すことも得意で、内心では激しい怒りを抱いている時も表面では穏やかに振る舞ったといわれます。・・・恐ろしいな。

・曹操ははじめ、出仕を断った司馬懿に刺客を放つと、「もし驚いて逃亡するようであれば殺してしまえ!」と命じましたが、司馬懿は動じなかったために難を逃れたといいます。・・・胆が据わっているわぁ。

・諸葛亮が陣没すると蜀漢軍は退却しました。蜀漢軍が退却したのち、司馬懿はその陣跡を見渡すと「孔明は天下の奇才だ」と漏らしました。また、司馬懿は撤退する蜀漢軍に追撃をかけようとします。しかし、蜀漢軍が魏軍に再度攻撃する様子を示したので司馬懿は、敵方の策略を警戒して軍を退却させます。その事を人々は「死せる諸葛、生ける仲達を走らす」といったと伝わります。この話を司馬懿に報告すると、司馬懿は「生者を相手に戦うことは得意だが、死者を相手に戦うのは苦手だ」と答えました。

・魏に反した公孫淵が呉に援軍を求めたとき、孫権は「司馬公は用兵に優れ、自在に使うこと神の如しといわれております。そんな人物を相手にせねばならないとは、気の毒なことですね」と書簡を送っただけでした。

・曹操曰く、「司馬懿は誰かに仕えて終わるような男ではない」と常に警戒していたとされますが、後にそれが真実となってしまいます。

三国志シリーズより

私 見

この人、調べれば調べるほど本当に頭のきれるすごい人物ですね。三国志演義のイメージから、孔明に踊らされるイメージがありましたが、実力はとんでもなく高いです。

司馬懿の長所は、

・軍略・計略・統率力どれも高いレベルでまとまっており、その生涯においていかんなく発揮されていること。
・子供達の育て方もうまい。司馬一族は子育ての極意でもあるのかと疑うレベルであること。

短所は、

・やることが徹底しているあまり、処罰が激しすぎること。
・許すということをあまりしない性格であること。

こんなところでしょうか。時代的にも自他に厳しくあるべきなのは確かですので、短所の部分は仕方のない気もします。しかし、この時代に自分の才能を精一杯使いきった素晴らしい英雄であります!

さて、いかがだったでしょうか。皆さんの人生に役立つ部分はありましたか?

この記事を読んでいただいた方に幸福が訪れますように!!

三国志シリーズより







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