頼れる宗主!本願寺顕如とは!?

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さて、今回は戦国時代において宗教国家をまとめ上げた人物をご紹介いたしまします!

その生涯を一緒に学んで、人生のヒントを見つけていきましょう!

「仏の導きとともに!いざ参らん!」

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英雄名

本願寺顕如(ほんがんじ けんにょ)

生 涯(1543~1592年)

戦国時代から300年ほど前、特別な修行は必要とせず、念仏を唱えて仏に身を任せるだけでどんな人でも極楽浄土へいけるという、「浄土真宗」が生まれました。

浄土真宗は、個々の信者が他の人に対して「救済(お祈り)」をすることを認めた、いわゆる「信じる者は皆兄弟」のような思想だったこともあり、荒んだ戦国時代にあって不幸が絶えない民衆の心を癒す教えとして爆発的に普及し、「一向宗」と呼ばれるようになりました。そしてこの「一向宗」の総本山が本願寺でございました。

しかし、多くの門徒を抱えるようになった一向宗には、農民のみならず武士も含まれるようになり、政情の混乱も相まって教主を主君と仰いだ独立国の建国を望み、武器を取って立ち上がる者が現れました。1488年には、加賀で大規模な一揆が起こって国を支配までに至り、徳川家康や上杉謙信のように一向宗を禁じる大名もいたほどでした。

数多くの信者を抱える本願寺家に生を受けた顕如は、本名を本願寺光佐(こうさ)といい、本願寺10代目:証如の長男として育つこととなります。11歳のころに父が亡くなると本願寺住職となり、同時に本願寺家11代目に納まりました。

顕如が住職となったころは、父:証如の代から行っていた一向一揆の掌握に努める一方、摂津・石山(現在の大阪市中央区)に建てられた本願寺を拠点に、各地に寺を建立して大名としても大きな勢力を築いていました。当時の石山本願寺は、軍事的な要衝にあったほか強固な石垣をめぐらされており、要塞と呼ぶにふさわしい防御力を備えていたと伝わります。

顕如が26歳のころ、戦国魔王:織田信長が将軍:足利義昭を奉じて上洛しましたが、この時顕如は、為政者に従って秩序を守る手助けをするのが仏法の道であるとする「王法為本」の立場から、当初は信長に従う姿勢をみせていました。

しかし、一向宗門徒の勢力を無視できない信長は、顕如に対する要求を次第にエスカレートさせていきました。一方で、門徒の方からは自治や独立を望む声が日増しに高まるようになっていき、顕如はその狭間で思い悩みます。

そんななか、信長と不仲になった将軍:義昭から信長討伐の御内書が発せられ、また信長から石山本願寺の明け渡しを要求されたこともあり、顕如は1570年に信長に反旗を翻すことを決意しました。檄文を飛ばして全国の門徒へ呼びかけ、信長との全面戦争に突入したのでした。

「石山合戦」として後世へと伝わる信長との戦いでは、将軍:義昭の御内書に呼応した朝倉家や浅井家、武田家、毛利家等と結んで「信長包囲網」を形成しました。自身は石山本願寺に籠城して抵抗したほか、紀伊(現在の和歌山県と三重県南部)雑賀衆のような土豪と組んで、10年間にも渡って戦国魔王を苦しめました。

しかし、信長によって朝倉・浅井家が撃破されたことで、本願寺は次第に苦境に立たされていき、1580年に天皇の仲裁を受け入れる形で遂に信長に屈服してしまいました。

顕如は石山本願寺を退去して各地を渡り歩いたのち、豊臣秀吉によって京都に土地を与えられて西本願寺を建立。1592年、50歳で亡くなりました。

なお、信長と和睦した際に、徹底抗戦を主張する息子の教如(本願寺光寿)を勘当しましたが、一部の熱狂的な信徒が教如を支持したことから、のちに本願寺は顕如の「西本願寺」と教如の「東本願寺」に分かれることになりました。

莫大な門徒抱えた顕如は、戦国大名化していかざるを得ませんでしたが、それは諸大名が勃興した戦国時代が、民衆にとってはいかに苦難の時代であったかの証明に他なりません。

エピソード

・顕如の時代は基本的に周囲の勢力との友好関係を築くことに注力しており、本願寺家の最盛期を迎えることとなりました。

・「本願寺顕如」とは、後世に分かりやすいようにした呼称で、正しくは「顕如」のみで呼びます。

私 見

昔から、本願寺という宗教団体が戦国時代の一大勢力として数えられることに不思議な感覚をもっていましたが、一般庶民や武士までも巻き込む戦国の中で興るべくして興った勢力であったんだなと、今回調べていてわかりました。顕如は世の中の情勢から激しい戦いをせざるを得ませんでしたが、普段は周囲とうまく関係を構築していくことに長けており、このような人がいる組織は羨ましい限りです。

顕如の長所は、

周囲と調和を図り、結果としてお家を発展させていったこと。

状況の見極めにも鋭く、下手に戦を長引かせなかったこと。

短所は、

若くして亡くなってしまったこと。

こんなところでしょうか。今の時代であれば、多くの人々から尊敬され世の中の生き方を説法によって教えるカリスマ住職になっていたことでしょう。自分の芯をしっかりと持ちながらも、周囲との関係はできるだけ良好に保つ・・・そんな生き方を学べる武将ではないでしょうか。

さて、いかがだったでしょうか。皆さんの人生に役立つことはありましたか。

この記事を読んだ方々に幸福が訪れますように!!







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