乱世に挑む覇王!曹操とは!?

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さて、今回は三国志の中トップクラスのカリスマ性を持ち、高い人気を誇る魏王をご紹介いたします!その人生を一緒に学んで、人生のヒントを発見していきましょう!

曹操:三国志シリーズより

「この乱世を治めるは、この曹孟徳よ!!」

英雄名

曹操(そうそう) 字:孟徳(もうとく)

生 涯

国の大臣である父:曹嵩(そうすう)を親に持つ曹操は、若いときから聡明快活で知略に富んでいました。しかし、酒や色を好み、その素行に問題があるとして世間の評判は大して高くはありませんでした(ん?信長に似てない?)。ただ政治家:橋玄(きょうげん)は「天下は今乱れようとしており、余程の才能がある者でなければこれを救う事はできない。天下を安定させるのは君だ」と曹操を高く評価しました。また、その橋玄が紹介した高名な人物批評家の許劭(きょこう)からは、「曹操、君は安定した世の中よりも、乱世の方が輝くよ☆」との評価を得ることになりました。これらの評価にワクワクした曹操は、後に橋玄を祀ることで、かつて高い評価を受けた恩義に報いたといわれます。

20歳のとき、今でいう国家公務員試験に合格し、洛陽北部の役人として着任すると規則違反者に対して、徹底した取り締まりを行います。任期中、当時の帝に寵愛されていた宦官の叔父が門の夜間通行の禁令を犯したときのこと。普通ならば後の報復を恐れて違反を見逃すところ、曹操は彼を捕らえると躊躇なく、即座に打ち殺しました(この選択をした曹操の行動力!)。これ以後、禁令を犯す者は現れなくなりました。これを疎んじた者達は、曹操を追放しようと思いましたが、勤務態度が完璧で責める理由が見つからず、逆に栄転させることによって洛陽から遠ざけました

184年、太平道の教祖:張角により黄巾の乱が発生し、いよいよ天下が乱れ始めます。曹操はその討伐に向かい、他の将軍らとともに大勝を収め、その功績によって済南(さいなん)という場所の宰相に任命されました。済南では汚職した者を辞めさせたり、悪い教えを説く宗教等を禁止することによって素晴らしい統治能力をみせましたが、その後、病気を理由に故郷に帰ってしまいます。若くして隠遁生活を送ることになった曹操でしたが、その間も自身の鍛錬を怠ることはありませんでした。

黄巾の乱の後、暴虐の徒:董卓が力をつけはじめていました。曹操も配下になるよう誘いを受けますが、その暴虐ぶりに耐えられず董卓の下を去ると、その後私財や援助をもらって挙兵しました。この時、曹操の部下には親族が多く勢力は小さいものでありました。

190年、袁紹を盟主として董卓打倒の連合軍が成立すると、曹操もこれに参加します。しかし、集まった諸侯は自身の利益ばかり重視して風見どり状態、戦わずに毎日宴会を催すなど、実の無いものでした。

董卓が洛陽を焼き払って遷都したとき、業を煮やした曹操は配下とともに董卓を攻撃しましたが敗退してしまいます。その後、曹操が軍の再編を図っている間に董卓打倒の連合軍は解散してしまいました。

191年、袁紹によって東郡太守の任命を上奏されて以後、曹操のもとに多くの武将や智将が集まり始め、グングンと力をつけていきます。

192年、曹操は黄巾軍の残党討伐を行い大勝、戦闘員30万人、非戦闘員100万人を降伏させると、その中から精鋭なる兵士たち「青州兵」を取り込みます。同年、かつて苦汁を舐めさせられた董卓が呂布によって殺害されました。

193年頃、徐州の雄:陶謙(とうけん)によって曹操の父・曹嵩や弟・曹徳を含めた一族が殺されてしまいます。

家族の復讐に燃える曹操は50万の大兵力をもって侵攻、陶謙から多くの城を奪いながら大勝し、数万人を殺したといわれます。やり方は苛烈かつ冷酷で、通過する道中全ての人々を殺害していき、その様子は「曹操の軍の通過した所では、鶏や犬の鳴く声さえもなく、死体で川の流れが止まった」と言われるほどの惨状だったと書かれている文献もあります。

196年には軍師らの進言を受けて、帝を迎え入れることに成功。曹操は帝から重役を賜り、それによって自身に大きな大義名分を掲げることができるようになりました。

199年、劉備と協力して天下無双の豪傑:呂布を撃破。

200年、官渡の戦いにて、自身の旧友であり、最大のライバルである袁紹を打ち破り、大きく勢力図を拡大することに成功します。

その後7年かけて袁家を滅ぼした曹操の勢力は大陸で圧倒的なものとなり、曹操と覇を競える英雄たちは数えられるほどしかなくなりました。

208年、曹操は大陸南部をも支配下に入れようとして侵攻します。荊州を抜けて赤壁の地まで順調に進撃していきました。ここで立ち向かってきたのは、曹操からすれば小勢力でしかない孫権軍と国すら満足に持っていない劉備軍。有力な者達ですが、曹操軍は兵力・武将・知略すべてにおいて圧倒的で必ず勝てる・・・はずでした。こうした慢心があったのか、孫権軍の機略にまんまとハマってしまい、曹操軍は火攻めを受けて大敗します。加えて軍内の疫病も重り、完全撤退を余儀なくされました。

これは完全に軍が整うまで何年もかかる・・・はずでした(なにぃ!?)。ここは予想を裏切る曹操、わずか2年後の211年、涼州の猛将:馬超らが率いる軍閥の連合軍を撃破してさらに支配勢力を広げていきます(マジかよ、なんか本能寺に負けた信長が生きてたらみたいな状況になったな・・)。

213年には部下の提案に従い魏公となり、216年に魏王、つまり王国として魏を建国します。帝には権力は無く、実際には後漢を背負う曹操でしたが、最後まで帝位にはつかない姿勢を貫きました。

それからは、自身も認めていた英雄:劉備と激闘を繰り広げ、時に自身に甚大なる被害を与えた孫権とも同盟しながら戦い続けていきました。その中で、多くの相手武将を撃破し、また挙兵から力を貸してくれていた部下たちも失うことになりました。

220年、怒涛の生涯を送った曹操も病には勝てず死去。「戦時であるから喪の期間は短くして、墓に金銀等をいれてはならぬ」との遺言を残しました。

曹操:三国志シリーズより

エピソード

・曹操は若い時、叔父さんから注意を受け、自身の行動を父:曹嵩に報告されることが嫌でした。ある時、叔父さんが訪ねてくると曹操の顔面が引きつっており、叔父さんが驚いてどうしたのか尋ねると、「顔面が治らないのです!病気かもしれません!!」と言い、叔父さんはそれを曹嵩に報告。曹嵩が急いで曹操の下へ行くと、曹操は何ともありません。曹嵩が病気ではないのかと尋ねると、「叔父さんはよく嘘をつきますからね。あまり信じないほうがいいですよ?」と笑顔で答え、以降叔父さんからの報告を曹嵩がきくことはありませんでした(すごいけど・・・クソガキ!w)

・統率力や知略が高いイメージがある曹操ですが、実は腕力も相当のものでした。飛ぶ鳥を射抜いたり猛獣を捕えるほどの腕前だったと伝わります。

・曹操は兵法書:「孫子の兵法」が好きすぎて、自分で注釈までつけてしまうほどで、これを「孟徳新書」といいます。

・曹操はその生涯で、若い時に仲の良かった袁紹、張邈(ちょうばく)の二人の友人と対立してしまうという悲劇を味わいます。覇道を行く代償だったのかもしれませんね。。

・英雄、色を好むのとおり、女性に対して開放的である為、奥さんから一方的に離縁を申し渡されたこともあります。また、未亡人等にも遠慮なく手を出し、そのことで命に関わる失敗も経験しています。

私 見

政治家・詩人・将軍・武人等、様々な顔をもち、その全てにおいて優秀な功績を収めている曹操は、トップに着くにふさわしい人物だと思います。少々行きすぎな部分はありますが、明確な目的と身分関係なく話を聴いてくれること、素早い判断と行動力、こんな人が上にいる組織が大きくならないわけがありませんね!

曹操の長所は、

・自身の能力が非常に高く常に磨き続け、部下の意見も広くとりいれること。

・人の才能を愛しており、才あるものは身分関係なしに取り立てること。

短所は、

・戦や自身に無礼な態度をとった者達に対して、非情かつ冷酷に徹することができてしまうこと。それもとんでもない規模で。

・女性好きを抑えられないこと。

作成していて、若い時にやんちゃボーイで、戦に冷酷なこと等、かなり信長に似ているように感じました。完璧な能力を持つように見えて女性関係に隙が多いのは、人間らしい魅力かなとも感じます。常に自身の能力を高め続け、強いリーダーシップを持って組織をけん引することは、現代社会においても重要な能力であると感じています。

さて、こんなところでしょうか。人生に役立つことはありましたか?

この記事を読んでいただいた方に幸福が訪れますように!!







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