調略に秀でた秀吉の右腕!蜂須賀小六とは!?

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さて、今回は秀吉に最後まで仕えた調略の名人をご紹介いたします。その生涯を一緒に学んで、人生のヒントを見つけていきましょう!

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「秀吉!その役目、俺に任せとけ!」

英雄名

蜂須賀 小六(はちすか ころく)

生 涯(1526~1586年)

秀吉に仕えた武将として名高い蜂須賀小六。小六(ころく)とは通称であり、本名を蜂須賀正勝といい、尾張(現在の愛知県)の国人領主の家に生を受けました。

小六は、木曽川を利用した運水業を生業としており、川沿いの勢力として名を知られらた「川並衆」の頭目であったともいわれています。

父の代から美濃(現在の岐阜県)の斎藤家に仕えていましたが、後に戦国魔王:織田信長の下に仕えることとなりました。

信長の配下になってからは「桶狭間の戦い」に参加して武功をあげ、旧主家である美濃斎藤家の攻略の際には、その調略にも貢献しました。

そののち、豊臣秀吉のもとに配属となって長島一向一揆の鎮圧や、浅井・朝倉連合軍との戦い等を通して秀吉と死線を搔い潜りながら勲功を積み上げていきました。

1582年、「本能寺の変」にて大殿である織田信長が亡くなると、小六は秀吉直参の将として、益々交渉役や勢力拡大のための主戦場(「山崎の戦い」や「賤ヶ岳の戦い」等)に赴いて活躍しました。「小牧・長久手の戦い」では、秀吉不在の大阪城の留守役も任されていることから、高い信頼を寄せられていたことがわかります。

秀吉のため、多くの功績を残した小六でありましたが、「四国征伐」の後に病に倒れてしまいます。秀吉から阿波(現在の徳島県)の一国を賜りますが、小六はこれを息子に譲り、翌年1586年に亡くなってしまうのでした。

エピソード

・小六と秀吉の出会いや関係性については諸説ありますが、その中の一つに、秀吉とは古くからの付き合いがあり、信長のことは大して好きではありませんでしたが、秀吉の部下としてなら働く意欲があったために、秀吉の家臣になったというものがあります。

・講談や小説、大河ドラマの中の小六は、筋骨隆々で荒々しい役どころが多いイメージがありますが、実際は武力だけではなく、調略や政治にも明るい万能な武将であったことがわかります。

私 見

私も今回調べるまでは、蜂須賀小六という人物を武力一筋の将と思っていましたが、知略にも富んでいる武将であったことは衝撃でした。大河ドラマでもがっしりした俳優さんが役に就いていることが多いですしね。

小六の長所は、

・文武両道で対応力が高いこと。

・運水業という稀な特技があること。

短所としては、

・秀吉の天下を見ることなく亡くなってしまったこと。

こんなところでしょうか。秀吉の家臣団を調べると、天下を取るまでは本当にバラエティに富んだメンバーが揃っていますが、天下平定後に亡くなる古参組が多いのが毎回気になるところです。小六のような万能な家臣たちが長寿であったなら、あるいは豊臣の天下はより長いものになっていたかもしれませんね。また、運水業というほかの武将には備わりづらい特技があるということは、現代の私たちも参考になる部分があるかもしれません(他者に真似できないスキルを磨く点)。

さて、いかがだったでしょうか。皆さんの人生に役立つことはありましたか?

この記事を読んだ方々に幸福が訪れますように!!

 







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