非情の武を持つ猛将!龍造寺隆信とは!?

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さて、今回は九州で名を馳せる猛将をご紹介いたします!その生涯を一緒に学んで、人生のヒントを見つけていきましょう!

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「敵軍をひたすらに叩きのめせい!!」

英雄名

龍造寺隆信(りゅうぞうじ たかのぶ)

生 涯(1529~1584年)

現代においても九州屈指の猛将として名高い龍造寺隆信ですが、その生まれは龍造寺家の分家でありました。隆信は幼いころから優れた資質を見せており、12,3歳にして20歳と変わらないほどの体格を有しておりました。

隆信が17歳の時に、主家の小弐家から謀反の疑いをかけられ、龍造寺家の親族が殺されてしまい隆信は分家の跡取りとなりますが、今度は本家筋が嫡子のないまま亡くなったことで、隆信が20歳の時に本家を継ぐことが決まりました。

ところが、隆信が主家を継ぐことに不満を持つ者が家中におり、謀反を起こしたため、隆信は城を追われて筑後(現在の福岡県南部)へと逃れ、柳川の蒲池鑑盛(かまち あきもり)の庇護を受けることになりました。

その2年後、譜代の重臣たちとともに発起した隆信は、もとの居城であった佐賀城を奪還します。

自分に対して謀反を起こした者たちを誅殺、または降伏をさせて権力を回復すると、勢力を肥前(現在の佐賀県と長崎県)の東まで拡大し、本家の仇である小弐家を打ち滅ぼしたのでした。

その後、隆信は毛利家と結んで大友家に対抗。佐賀城に押し寄せた大友家の大軍を打ち破り、さらに勢いを増して肥前→筑後まで版図を広げました。

大友家が「耳川の戦い」にて島津家に敗れて、勢力が弱くなると、筑前(現在の福島県西部)へと攻勢をかけて、15郡のうち9郡を占領する活躍を見せ、龍造寺家の絶頂を極めました。

しかし、隆信の容赦ない性格は人々の心を離していき、島津家に寝返った有馬家を討伐すべく起きた「沖田畷(おきたなわて)の戦い」の際に戦死してしまうのでした。

「肥前の熊」とまで呼ばれた隆信の、慢心によるあっけない最期でありました。

エピソード

・若い頃の隆信は英気にあふれた人物でありましたが、年齢と戦国という時代に飲まれたのか次第に疑心暗鬼で、冷酷な性格になっていったといわれています。

・鍋島直茂は隆信の義弟にあたります。

・どんなに仲の良い人間でも、敵とつながっているという情報を聞いた途端に処断・処分を考える性格であったようです。

・戦場での判断能力は素早かったといわれています。また、「ここぞという時には迅速に判断せよ」というのが、口癖であったといわれています。

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私 見

戦国時代の一国人から、九州屈指の勢力にまで家を拡大させた隆信は、非常で狡猾な部分が多く散見されますが、その性格だからこそこれほどまでの隆盛を作れたことも確かでありましょう。

隆信の長所は、

・戦場での判断が速く、又どこと組めばよいのかを熟知していること。

・相手の弱みを突くのが上手く、強気な交渉もできること。

短所は、

・人のことを基本的に信じていないこと。

・女子供にも容赦のないこと。

こんなところでしょうか。信賞必罰の極致にあるような隆信の性格は、敵味方関わらず恐怖させ結果、自分の命までも奪う結果になってしまいました。激しすぎる性格は、現代においても味方を少なくしてしまう点に関しては、私たちも顧みないといけない点かと考えます。

さて、いかがだったでしょうか。皆さんの人生に役立つことはありましたか。

この記事を読んだ方々に幸福が訪れますように!!







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