三国志最強の武!呂布とは!?

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さて、今回は三国志でも最強の武を誇るという武将:呂布をご紹介します!彼の生涯から得られることとは!?一緒に学んでいきましょう!

呂布:三国志シリーズより

「この俺に挑むとは。少しは楽しませてもらえるんだろうな?」

英雄名

呂布(りょふ) 字:奉先(ほうせん)

生 涯

その優れた武勇を見込まれて、はじめは并州刺史の丁原(ていげん)に仕えました。丁原は、呂布を会計係に任じて非常に大事にしたといわれております。

ときの大将軍:何進(かしん)が死ぬと、洛陽に入城した董卓(とうたく)は反乱を計画し、なにかと口うるさい丁原が邪魔に感じていました。呂布は董卓にうまく誘われて、丁原を殺してしまいます(主殺し1回目)。これを喜んだ董卓は呂布を非常に重用し、父子の契りを結んだとされています。

董卓が諸将との戦いに敗れ、洛陽から長安に都を移して専横を極めると、司徒(=偉い大臣)の王允(おういん)は、呂布に対して董卓を暗殺する計画をもちかけます。192年、董卓は皇帝の病の回復を祝うために宮門に入ると、呂布の命で待ち受けていた者達が董卓を襲撃、董卓は呂布に助けを求めましたが、呂布によって殺され、その暴政は幕を閉じました(主殺し2回目)。

それからしばらく、呂布は王允とともに長安を治めていましたが、涼州からの軍勢の攻撃に耐えられず、呂布は王允を置いて都を追い出されてしまいます。

呂布はまず荊州に赴くと、袁術(えんじゅつ)に手厚くもてなされましたがこれを受け入れることはできず、次にその兄:袁紹(えんしょう)を頼りました。袁紹は黒山賊の張燕と戦っている最中で、呂布を迎え入れ、共に張燕を攻撃しました。張燕は精兵1万と騎馬数千匹を率いて勢威を振るっていましたが、赤兎馬に乗った呂布と、呂布配下の勇将達が率いる数十騎が1日に何度も突撃して張燕軍に大損害を与えていたために、数十日後に遂に敗れて、以後黒山賊は離散しました。この戦いの後、愛馬である赤兎馬とともに人中の呂布、馬中の赤兎と賞賛されたといわれております。

その後も各地を転戦する中で、曹操の軍勢と対立。また優れた軍師:陳宮(ちんきゅう) を得てはいましたが、安定した地盤を固めてはいませんでした。そして、当時徐州を支配していた劉備の元へ向かうこととなります。

呂布は劉備の元を訪れると、酒を酌み交わして弟と呼んだといいます。劉備は、表面上はそうした扱いに感謝しましたが、内心彼を不愉快に思いました。まぁ、そりゃいきなりガラの悪い輩が入ってきて弟呼ばわりされたら嫌でしょうよ。

まもなく徐州を巡って劉備が袁術と戦うようになると、その隙を突いて呂布は劉備の本拠を奪い取ってしまいます。行き場を無くした劉備が呂布に降伏すると、呂布は劉備を豫州刺史にして、自らは徐州刺史を名乗りました。

その後に袁術は、呂布軍を転覆しようと画策しましたが、呂布がすんでの所で逃れた為失敗しました。呂布を恐れた袁術は、自分の息子と呂布の娘との間に婚約関係を結ばせる事を提案して呂布もそれを承認しました。

その後、袁術が再び劉備を攻撃しようとしたため、劉備は呂布に救援を求め、これを機転をきかせて調停、鎮めることに成功します。

しかしその後、今度は呂布が劉備を攻めて小沛を陥落させたため、劉備は逃走し曹操を頼ったのでした。

事情を聞いた曹操は、自ら大軍を率いて徐州に攻め込みました。曹操軍が彭城を落とすと陳宮は献策したが呂布は聴く耳を持たず、度々曹操と戦うも毎回大敗し、下邳に籠城することになりました。包囲して後、下邳を攻め落とせず疲弊した軍を心配して撤退を考える曹操に対して、曹操軍の軍師達は水計(城を水没させる策)を考案し実行します。これを受けた呂布軍は瓦解、一部配下の武将たちは陳宮らを捕えて呂布を裏切り、呂布は後に残った部下とともに投降します。この時に、呂布は部下に自分を売って曹操に降るよう命じましたが、部下たちは遂行できなかったとも言われております。

投降した呂布は縛られて曹操の前に出されました。呂布は「縛り方がきつすぎる。少し緩めてくれないか。」と願い出ましたが、曹操は「猛々しい虎を縛るのに縄をきつくしないわけにはいくまい。」と答え受け入れられませんでした。呂布が「曹操殿の悩みは私一人でしょう。それが降伏したならば、心配事はもう有りますまい。あなたが歩兵を率い、私が騎兵を率いれば、天下の平定など容易なことではありませんか。」と語ると、曹操は一瞬そうかもしれんと考えます。劉備に助言を求めると、「呂布は過去に丁原・董卓を裏切っているのをお忘れか。同じようになりますぞ。」と諫めると曹操もそれに頷き、呂布の処刑を決定します。呂布は「そやつ(劉備)こそが一番信用できない者だぞ!」と激怒して主張しましたが、縛り首にされてしまいました。同時に曹操による助命を拒んだ重臣の陳宮・高順らも縛り首にされました。呂布・陳宮・高順らの首は晒された後に、埋葬されたと伝わります。

呂布:三国志シリーズより

エピソード

・呂布は腕力が常人よりも恐ろしいほど強く、弓術・馬術も極めて優秀であったことから、前漢の李広になぞらえて飛将と呼ばれていました。

・呂布を養子にまで迎え、大事にしていた董卓の暗殺計画に加わった理由については、些細な事で董卓に手戟を投げられた事を恨んでいたから他、董卓の侍女と密通しており、それがバレて処罰されることを恐れたから等諸説あります。

・呂布が、劉備と袁術の戦争を調停したときの話。言い争う両者に対して、呂布は120歩(80メートル以上)先の陣中に戟を立てさせ、「両者よく見ろ。私が今から矢を放ち、あれに当てることができれば、争うなとの天のご意思。両者速やかに軍を退け。」と提案しました。陣中のほとんどの者達が不可能と思いましたが、呂布は見事に遠く離れた戟を射て両軍を撤退させたといいます。

・董卓軍にいたとき、劉備・関羽張飛という勇士3人を1度に相手をしても引けをとらなかったといわれております。

・愛馬である赤兎馬(せきとば)とは、一日千里(約3900キロ)を走り、赤い毛色をもち、兎のように速いとされている名馬です。馬好きの私からしたら・・・あってみてぇーーー乗ってみてぇーーーーーー!!(落ち着きなさい)

私 見

三国志の中で武勇に優れているものは数多くいますが、呂布ほどの強さを誇る者はいません。ゲーム等では武力が極めて高く、知力はサル並に低く設定されることが多いですが、エピソードにもあるように割と機転のきく行動も多いことから、そこまで知力が低いとも思いません(かといって高いとも思わない)。また、最後までついてくる部下もいたことから、性格は一貫性はないものの、合う人とは合う心を持っていたのではないかと思います。

呂布の長所は、

・天下に並ぶものなき武をもち、最後までその武がかげることはなかったこと。
・軍を統率する力も高く、最期は潔く投降していること。

短所は、

・自己中心的な性格が強く、部下や周囲の助言をよく聴かない。
・相手の計略に対しては、冷静に対応できない。

といったところでしょうか。陳宮や高順等優れた武将がいながらも、それらを活かしきれず最期は処刑されてしまう。もう少し、部下のアドバイスに耳を傾けて自身の武を存分に活かせれば・・・惜しいですね。しかし、その不完全さこそが後の人々に語り継がれる理由にもなったんでしょうね。

さて、いかがだったでしょうか。なにか人生において参考になるようなことはありましたか?

この記事を読んでいただいた方々に幸福が訪れますように!!

呂布:三国志シリーズより







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