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さて、今回は魏の国の堅実将軍をご紹介いたします!その生涯を一緒に学んで、人生のヒントを見つけていきましょう!🍀
「勝っても驕ってはならぬ。次の戦に備えよ!」
英雄名
徐晃(じょこう) 字:公明(こうめい)
生 涯(???~227年)
徐晃の生年については不明ですが、河東郡(現在の山西省南部)が出生地とされています。はじめは、地元の領主である楊奉(ようほう)という人物に仕えます。
196年、本格的に各地の群雄たちが台頭し始めると、徐晃は楊奉に漢の皇帝を助けるようにアドバイスします。楊奉はそれに従って都:洛陽へと入りました。その時に、徐晃は同じく皇帝を庇護するためにやってきた覇王:曹操と出会います。曹操は、徐晃の卓越した武力に感動して、味方に引き入れるよう部下に命じ、説得に行かせました。「あなたのような優れた人物が楊奉という凡人に仕えてはならない」という強い説得を受け、徐晃は曹操を新たな主と決めたのでした。
それから徐晃は次々と軍功をあげていくこととなります。
198年、鬼神:呂布との戦いでは敵将2人を降伏させることに成功。
200年、名族:袁紹との大戦「官渡の戦い」では、敵陣を攻め落とし、敵の勇将:文醜の軍を打ち破ります(小説:三国志演義では逆に負けちゃってる( ;∀;))。またこの時、とある理由から曹操軍に従っていた軍神:関羽と知り合い、親交を深めています。
204年、敵将が降伏と偽って籠城をきめこんだときには、武力ではなく知略(ジョコタン、手紙を書きました🎵)を用いてこれを説得、不戦勝を曹操に献上しました。
207年、大きな河を渡れず苦戦する曹操に助けを求められると、兵士を借り受けて自分が先頭に立ち真っ先に河を渡り、その後の戦に備えて前衛基地を建設しました。その活躍のおかげで、曹操は敵軍を破ることに成功しています。
着実な成果をあげ続ける徐晃は、その功績が認められ、国の中で特に武力・功績に優れる5将軍の1人に選ばれることとなりました。
そして219年、大陸中部の荊州の地にて、かつて親交を深めた蜀の軍神:関羽と対峙することとなりました。徐晃は、私念を捨ててこれに挑み、これを撃退することに成功。関羽はこの戦いによって敗色が濃厚となり、その後に戦死しています(私の関羽がぁ・・・((+_+))。
それからも活躍した徐晃でしたが、身体は徐々に病に侵されていきました。徐晃は当初、無理をして出陣していましたが、とうとう自分の命が短いことを悟ると「葬儀は質素に。普段着のまま葬ってくれ」との言葉を残し、227年に亡くなりました。
エピソード
・小説:三国志演義では徐晃は大斧を振るう将軍として描かれ、ゲーム等でもそれが反映されていますが、正史には斧を愛用していた記述は特にないようです。
・徐晃の性格は、決して驕らず、部下にも親身に接している等、人望の厚い人物だったといわれています。
・徐晃の軍はよく訓練されており、たとえ勝利しても浮足立つ者が1人もいなかったといわれています。
・友人兼ライバルでもあった関羽と対峙した際には、「関羽殿には、昔色々とお世話になりました。しかし、私個人の恩義と主命は別でござる」として勇敢に挑み、退却させることに成功しています。
・武力一辺倒かと思いきや、戦では情報を重要視しており、戦場の遠くまで偵察隊を送る等、慎重さも兼ね備えていました。
・曹操のことを信頼しており「昔の人はよく名君に出会いないというが、私は幸運にも出会うことができた。その幸運に武功をもって報いなければならない。個人の武功など大したものではないが」と常々口にしていたといわれています(ジョコタン、謙虚すぎ~~( *´艸`))。
私 見
徐晃のように武力に優れ、謙虚であり、人望もある人が味方にいてくれれば、これだけ心強いことはないでしょう。積み上げた功績を自慢することもなく、その後も着実に成果を上げていく姿は、とても素晴らしく、尊敬します!
徐晃の長所は、
・自分を律することに長けていること。
・情報の必要性を十分に認識していること。
短所は、
・身体が病に侵されても、無理をして出陣をしていること。
こんなところでしょうか。私は、長所の情報を重要視していることが特に優れていると思います。今の時代はより、情報が錯綜する時代です。その中で正しい情報をつかみ取り、判断する能力が強く求められます。私個人としても、情報を上手く活用し、且つ踊らされない心を身に着けていかなくてはならないと考えます。
さて、いかがだったでしょうか。人生に役立つことはありましたか?
この記事を読んだ方に幸福が訪れますように!!