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さて、今回は三国志の名軍師:諸葛亮孔明の兄であり、弟に負けず劣らず優秀な武将であった諸葛瑾をご紹介します!一緒にその生涯をみて、学んでいきましょう!!
「亮ほどではなくとも、微力ながら力になりましょう。」
英雄名
諸葛瑾(しょかつきん) 字:子瑜(しゆ)
生 涯
父は諸葛珪、かの諸葛亮孔明は7歳下の弟でございます。若い頃から学問に明るく、『毛詩』・『尚書』・『左氏春秋』などを読み込んでいました。14歳のときに実父:諸葛珪が亡くなり、後に実母も亡くなると継母に尽くしました。実に孝行な息子ですね。
後漢末期の戦乱を避けるために孔明ら弟達は荊州に、諸葛瑾は継母とともに揚州に移り住みました。ここで諸葛兄弟はバラバラに生きることとなります。
ちょうどこの頃、小覇王:孫策が亡くなり孫権が跡を継いでいました。孫権の姉婿である弘咨(こうし)は、諸葛瑾の非凡な才能を見抜き、彼を孫権に推挙しました。孫権の諸葛瑾への評価は高く、客人として扱われたと伝わります。
劉備側の使者として弟:孔明が都を訪ずれた際、孫権に孔明を説得して仕えさせられないかと言われると、「私が殿(孫権)を裏切らないのと同じで、弟もまた劉備を裏切ぎることはないと考えます。」と言い、孫権はこの言葉に感銘を受けて、諸葛瑾に益々信頼を示すようになったといいます。
215年、劉備が益州を手中に収めた後に、荊州返還を要求する孫権の使者となります。この時、劉備に仕えた弟:孔明とは公私の立場をはっきり区別し、公の場で顔を合わせても、私的な面会を行うことはありませんでした。しかしながら、この交渉は結果として失敗してしまいました。このことに孫権が怒り、呂蒙に命じて荊州を奪取させると、劉備も自ら兵を派遣し同盟関係が切れかけました。しかし呉の名将:魯粛の知略と、さらに曹操が漢中を平定したことで、劉備の方から和議が申し込まれました。諸葛瑾は同盟関係を確認するため、再度使者として益州に赴きました。
229年に孫権が皇帝を号すると大将軍に任じられました。
234年には弟:孔明の北伐に呼応して、陸遜と共に江夏に進軍しています。呉蜀の同盟関係が復活した後は、弟とも連絡は取り合う関係であり、長らく子がいなかった弟のために、次子の諸葛喬を養子として出しました。
孫権が老いて判断力が鈍ると、法律を利用して人を罪に陥れる役人が出没するようになりました。孫権は後に過ちを反省し、重臣達に向けて国政に対する意見を求めたところ、諸葛瑾は一時は孫権の要請を黙殺しましたが、孫権が詔勅により自分の誤まりを正すよう必死に要請したため、諸葛瑾はすぐさま具体的に回答を示したといいます。
241年、孫権が魏に大規模な攻勢をかけた際に、諸葛瑾も荊州方面に軍を展開させましたが、主力の軍が戦果を挙げることができなかったために、一斉に撤兵しました。この直後、諸葛瑾は68歳で死去しました。白木でできた棺に普段着のままで埋葬した上で、葬儀は質素にするよう遺言したといわれています。
エピソード
・諸葛瑾は孫権の性格を良くつかんでおり、戒める時も直接言う事はなく、諭すような様子で取り成し、孫権と不仲になった武将達との関係を上手く取り持ち、また、孫権に疎まれた文官の弁護を懸命に行い、感謝されたと伝わります。
・諸葛亮の兄ということで、呉の内部から裏切りを疑われたとき、孫権は「瑾が私を裏切らないのは、私が瑾を裏切らないのと同じだ」と言い、先の諸葛亮との関係を述べた発言を引いて、再び絶大な信頼を示し、そのつもりでいるよういい含めたといいます。 お互いに、とても強い信頼関係をもっていたんですね!
・用兵については、臨機応変な対応は苦手でありましたが、それを理解し、戦況が悪いと判断すると、すぐに軍を引く等の機転をはたらかせていました。
・容姿については、馬面でロバに似ているとも言われており、孫権は仲がよかったこともあって、酒の席では容姿をからかうこともあったとされています。
私 見
三国志といえば、弟の孔明の方が有名ではありますが、兄である諸葛瑾も、功績等をみても劣ることなく優秀であったことは間違いないでしょう。
この武将の長所は、
・親、兄弟を大事にする。仲間思いである。
・人物をよくみており、ものの言い方が上手い。
短所は、
・器用であるが、調略や軍略において際立つ能力が少ない。
・子供の育て方がそんなに・・・上手くない。(息子の慢心が後に一族を危機にした)
といったところでしょうか。諸葛一族は優秀な人材が多く、諸葛瑾は特に人格面に優れた人物であるようです。人を動かすのに言い方って、とっても大事です!
いかがだったでしょか。何か人生のヒントになることはありましたか?
この記事を読んでいただいた方に幸福が訪れますように!!