鬼謀を父に持つ勇将!黒田長政とは!?

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さて、今回は戦国きっての知恵者:黒田官兵衛を父に持つ、勇将をご紹介いたします!その生涯を一緒に学んで、人生のヒントを見つけていきましょう!

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「父とは違う道で、私は大成してみせる!!」

英雄名

黒田長政(くろだ ながまさ)

生 涯(1568~1629年)

黒田長政は、1568年の12月に播磨姫路城で生まれました。父は、天下に轟く謀将:黒田官兵衛でございます。

長政が生まれた時、父:官兵衛は織田信長の勢力に属しており、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に従う立場でした。信長が併呑した播磨の諸勢力の武将たちに人質を差し出すように迫られると、幼い長政はこの対象となり、秀吉の家に出されることとなりました。

1578年、織田家武将:荒木村重が反旗を翻して乱を起こすと、父:官兵衛は村重の説得のために敵城に乗り込みましたが、逆に拘束・監禁されてしまいます。いつまで経っても戻ってこない官兵衛を信長は敵方に寝返ったものと判断し、人質であった長政を殺害するよう秀吉に指示を出しますが、秀吉側の軍師:竹中半兵衛の機転によって長政は匿われ、生き残ることができました。

1582年に本能寺にて信長が明智光秀によって討たれると、黒田家は親子揃って秀吉を主君としその覇業を支えることを決定します。

以降、毛利家(備中高松城の戦い)・柴田家(賤ヶ岳の戦い)・徳川家(小牧・長久手の戦い)・九州征伐といった戦国屈指の勢力との争いに関与、功績を挙げて秀吉の天下統一のために尽くしました。

さらに、秀吉が朝鮮出兵へと踏み切ると、長政も5千人の兵士を引き連れて海を渡り、敵城の攻略や味方の救援、主要拠点の防衛と幅広い活躍を見せますが、秀吉の死をきっかけに日本軍は大陸から撤退。長政も帰還しますが、戦時中の考え方の違いから秀吉の腹心であった石田三成らと対立するようになっていきました。

1598年、秀吉の死によって再び天下が乱れ始めると、長政は徳川家康に接近し、それまでの妻とは別れ家康の養女を改めて妻に迎え入れました。また三成ら文治派との対立が深まり、秀吉の右腕であった前田利家も死去すると、加藤清正らとともに三成の屋敷を襲撃しました。

そして1600年、天下の大名が家康率いる東軍と、三成率いる西軍に分かれての大決戦”関ヶ原の戦い”が始まると、表立っては敵軍きっての猛将であり智将:島左近を討ち取り、裏では敵武将の寝返りを工作する等、千変万化の活躍をみせて東軍の勝利に貢献し、その功績は軍随一といわれるほどでありました。その後天下は徳川家によって再統一され、以後300年に渡る江戸時代が開始されることとなります。

そうした時代にあって筑前国(現在の福岡県)を領土としてた長政は、産業の発展に力を注ぎ、博多人形や博多織、高取焼といった現代まで伝わる数々の工芸品等を盛り立てました。

戦時・平時を問わず活躍した長政でしたが、病には勝てず1528年に56歳でこの世を去りました。

エピソード

・長政は、よく考えてから行動する性格であり、父である官兵衛から優柔不断であると注意されたこともあるようです。また、黒田家は築城技術が高い家臣が多く、日光東照宮や名古屋城等関わった建造物が全国にたくさんあります。

・長政は熟考する性格でありましたが、優しかったかと訊かれればそうではなく、敵対する勢力の武将を男女関係なく処刑したり、時代によってキリシタンを迫害する等、戦国武将特有の冷淡な部分もあったとされています。また、自分の功績を度々語る等、誇りやプライドを重視する一面もありました。

・家中の剣の達人に挑んだ若者に対して「素人が達人に負けるのは当然のことで、恥とは思うな。これから師匠の下でたくさん努力するように」と激励し、その若者は涙を流したといわれています。

・父:黒田官兵衛の代から仕えていた槍の名手:後藤又兵衛を追放した後、他家に仕えさせないよう仕向けていました。これは、又兵衛が父である官兵衛に厚遇されたことに嫉妬したといわれていますが、近年では長政の命令に又兵衛が従わなかったために、因縁が生まれたことが原因ではないかともいわれています。

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私 見

天下の謀将:黒田官兵衛という偉大過ぎる父を持ちながらも、腐ることなく黒田家隆盛のために尽力した長政には、どことなく親近感を抱いてしまいます。天下人になる人物を見極める能力も優れており、時代の変化にも柔軟に対応できる姿は素晴らしいものがあります。

長政の長所は、

・文武に優れ、時代の変化にも柔軟に対応できること。

・偉大な父を持ちながら、腐ることなく自立できたこと。

短所は、

・目的達成のためならば、冷酷な手段も迷うことなく選択できること

・プライドが高く、短気な部分があること。

こんなところでしょうか。父である官兵衛よりも武官としての能力が高いことが自らの心の支えとなり、結果プライドも高くなっていったように感じます。しかし、どのような時でも自分を磨き続けていく姿勢は、現代の私たちにとっても非常に参考になる部分ではないでしょうか。

さて、こんなところでしょうか。皆さんの人生に役立つことはありましたか?

この記事を読んだ方々に幸福が訪れますように!!

 







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