時代を見抜く眼力!藤堂高虎とは!?

皆さん、こんにちは!こんばんは!うまぽよです🐴✨✨
今日もご覧いただきまして、誠にありがとうございます!
さて、今回は時代の流れを的確に読み、何人もの主君に仕えた武将をご紹介いたします!その生涯を一緒に学んで、人生のヒントを見つけていきましょう!

藤堂高虎:コーエーテクモゲームス

「強き者に仕える。これこそ乱世を生き残る方法よ」

英雄名

藤堂高虎(とうどう たかとら)

生 涯(1556~1630年)

生涯に何度も主君を変えた武将と聞いて、皆さんはどういった印象を受けるでしょうか?

義理がない、信念がない、精神的に弱そう等々不満の声が多く上がりそうですね。

しかしながら、忠義心を美徳とする儒教的な考え方は、強固な封建制度が必要とされた江戸時代以降の話であり、戦国時代のような乱世には自身の裁量で仕える主君を変更するというのは、ごく当たり前のことでした。

そうした時代の中で高虎は、地元の戦国大名だった浅井長政に仕官することとなり、14歳のときに「姉川の戦い」に参加して武功を挙げ、頭角を表しました。

浅井家が戦国魔王:織田信長によって滅亡させられると、浅井家の旧臣であった阿閉貞征(あつじ さだゆき)や磯野員昌(いその かずまさ)に仕えた後、信長の甥:織田信澄の下へ行きますが長続きせず、「姉川の戦い」から6年後に豊臣秀吉の弟:豊臣秀長に仕えてようやく落ち着きを見せました。

最初に仕えた浅井家は織田家により滅亡。阿閉貞征は明智光秀の謀反に加担し滅亡。磯野員昌は織田家に降ったのちに追放され、織田信澄は「本能寺の変」の混乱の中で殺されるという悲劇的な運命を背負った人物から高虎が去ったのは、彼が優れた人物眼を持っていたことにほかなりません。

豊臣秀長の下ではきっちりと仕事をこなして出世しており、秀長が亡くなるまで忠義を尽くしたことから、仕える人物をしっかりと見据得たうえで行動しているのがよくわかります。

豊臣秀吉が亡くなると、今度は徳川家康に接近しますが、これに関しては個人的に家康と親しかったことに加えて朝鮮出兵では高虎も出陣しており、武断派に属していたこと(逆に石田三成の派閥を文治派)による部分が大きかったといえます。

家康にも忠義を尽くし絶大なる信頼を獲得した高虎は、譜代の家臣たちと同等の扱いを受けるようになっていることから、彼の処世術や仕事ぶりは世間的にも高い評価を受けていることがうかがえます。

最終的には徳川家光(3代将軍)まで仕えて74歳でその生涯を終えるのでした。

エピソード

・高虎は幼少期から人並外れた体格を誇っており、最終的には190cmを超える身長を有していたといわれています。

・戦場での活躍も目覚ましいものがあり、一揆の鎮圧や大戦においても着実に武功を積み上げる武将でありました。

・城郭建築においても優れた手腕を持ち合わせていました。

・交友関係も広く、茶会を好み多くの情報を得て政治学も磨いていきました。

・家臣に対しても再仕官を許したり、賭博で破産したものを「勝負ごとに勝とうとする意欲がある」として、許すといった対応を行っていたようです。

私 見

自分の高い能力をもって主君を変え、成功を手に入れた高虎。決して日和見する武将ではないということがよくわかりました。無能には冷たく、しかしこの人と決めたら一心不乱に仕事をこなしていく。この人がいることが逆に有能な主君であることの証明になることでしょう。

高虎の長所は、

・戦や政治に長けており、自分を磨くことに貪欲であること。

・時代や主君を的確に見抜き、行動していること。

短所は、

・決断力の速さが、不忠を疑われてしまうこと(後世において)。

こんなところでしょうか。現代においても終身雇用制度はすでに崩壊しており、有能な人ほど多くの職場を経験しているような状態に移ろうしている気配もあります。高虎のように本当に使えるべき会社や人物を探しつつ、自分を高め続けていくような生き方も良いのかもしれませんね。

さて、いかがだったでしょうか。皆さんの人生に役立つことはありましたか。

この記事を読んだ方々に幸福が訪れますように!!







-生き方, 自己啓発, 武将, 戦国武将, 藤堂高虎

Copyright© うまぽよのパワースポットと自己成長研究所 , 2024 All Rights Reserved Powered by STINGER.