優れた銃と水軍の使い手!滝川一益とは!?

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さて、本日は織田家に仕えた忍者大名をご紹介いたします!その生涯を一緒に学んで、人生のヒントを見つけていきましょう!

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「この銃と水軍、いかに使うべきか・・・」

英雄名

滝川一益(たきがわ かずます)

生 涯(1525~1586年)

滝川一益の出自については諸説ありますが、近江の国(現在の滋賀県)甲賀の土豪:滝川資清の次男として生まれたというのが通説となっているようです。

一益は当初、六角家に仕えましたが、尾張(現在の愛知県)で魔王:織田信長が台頭してくると、織田家に仕えるようになりました。武器や戦術に明るい一益は、早くから信長に気に入られることとなり、伊勢(現在の三重県)の北畠家との戦いで功を挙げて、長島城城主となりました。

その後も「三方ヶ原の戦い」や伊勢・一向一揆の討伐、「長篠の戦い」「石山合戦」など織田家の重要な戦場に次々と参戦して戦功を挙げており、特に「石山合戦」では屈強な毛利水軍への対応策として鉄甲船を仕立ててこれを撃ち破り、石山本願寺への輸送路を断ち切ったことで、信長から賞賛されています。

信長が武田家を追い詰めて滅ぼすと、一益は信濃(現在の長野県)と上野(現在の群馬県)を任されますが、この直後に「本能寺の変」が発生して信長は歴史から姿を消してしまいます。

戦国魔王の死去によって、これに乗じた北条家が北上、侵攻してきました。

一度は北条軍を押し返した一益でしたが、再度の信仰を受けると大敗して、やむなく伊勢の領国へと撤退しました。

しかし、北条家との戦に注力するあまり、一益は信長の弔い合戦に参加できず、更に秀吉の指令によって、信長の後継者を決める「清須会議」への出席も許されませんでした。

秀吉が信長の後継者としての振る舞いが強くなってくると、一益は織田家の宿将:柴田勝家に味方してこれに対立します。しかし、「賤ヶ岳の戦い」において柴田軍は大敗し、一益も降伏することに。また秀吉と家康が争った「小牧・長久手の戦い」でも一益は目立った活躍を残すことはできず、これ以降は出家して戦国のデスゲームから脱出しました。

そして1586年に死去、享年62歳でございました。

エピソード

・一益は一般的には「かずます」っと読まれますが、「いちます」と呼ばれることもあります。

・一益は、当時火薬製造として有名な甲賀の出身であることから、忍者であったともいわれています。

・若いときから鉄砲の技術に長けており、「長篠の戦い」では、鉄砲隊を率いる立場であったとされています。また、鉄甲船の例もあり、水軍の扱いにも長けていました。

・武田勝頼を甲州征伐において追い込んだ張本人であり、信長から褒美として「刀(古備前高綱太刀 附 朱塗鞘打刀拵(こびぜんたかつなのたち つけたり しゅぬりうちがたなこしらえ)」を賜っています。この「刀」も当時の装飾品を伝える貴重な文化財として知られています。

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私 見

忍者の里である甲賀出身であり、銃器や水軍に長けていた一益の活躍は、織田信長にとってなくてはならない存在であったのは間違いないでしょう。しかし、信長の死後は今までの順調さが嘘のように秀吉と家康に追い込まれ、最終的には出家して戦国から離脱するという数奇な武将でありました。

一益の長所は、

・自分の技術を上手く活用して、戦の勝利に貢献していること。

・調略術や外交術にも才能を発揮したこと。

短所は、

・単独での戦はあまり得意ではないこと。

・時世に上手く乗り切れなかったこと。

こんなところでしょうか。戦国の世の中に安定という言葉はなく、いつ誰が死ぬのか、誰に権力が集中するのか全く分からない時代でありました。そのような状況にあって、急に信長という巨大な主君を一夜にして失った一益は、その後の対応が遅れ時代に呑まれてしまいました。現代も移り変わりが激しいので、私達も常に正確な情報を把握して時代に取り残されないようにしたいものですね!

さて、いかがだったでしょうか。皆さんの人生に役立つことはありましたか?

この記事を読んだ方に幸福が訪れますように!!







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