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さて、今回は曹操に仕えた抜群の智謀を持つ軍師をご紹介いたします!その生涯を一緒に学んで、人生のヒントを見つけていきましょう🍀
「情報こそ戦略の全て。よろしいか?」
英雄名
荀攸(じゅんゆう) 字:公達(こうたつ)
生 涯(157~214年)
荀攸は157年に現在の河南省許昌市に生まれました。曹操を支えた預言者軍師:荀彧(じゅんいく)の甥でもあります(但し、齢は荀攸の方が上)。
幼いころから利発で人物眼に優れており14歳の時に父を亡くすと、試験を受けて役人となります。ここでも多くの実績を残し、優秀な内務官20人に選ばれています。
張角が民を先導して国に対して反乱を起こした後に鎮圧され、暴虐の徒:董卓が都を支配するとその専横に強い憤りを覚え、董卓暗殺計画を企てますが実行前に露呈してしまい牢屋に入れられてしまいます。処刑寸前のピンチでありましたが、その前に呂布が董卓を殺害したことで難を逃れました。
196年、帝を保護した覇王:曹操と面会して以降、彼に仕えることになりました。曹操も「荀攸は優れた人物であり、彼がいれば天下の憂いは晴れる」というほど気に入ったといいます。
荀攸は、内政をこなす能力はもちろんのこと、戦においては「敵の情報を正確に読み取り、それに合わせた戦術・人選を導き出せる」能力に長けていました。その予想は外れることはなく、曹操はその助言を聞き入れなかったときにのみ大敗を喫していたので、荀攸を筆頭軍師に任命し大きな信頼を置くようになりました。
200年、大陸北部の巨大勢力である袁紹と雌雄を決する戦いの際にも、荀攸の戦略が大いに役立ち、袁紹軍の主将を討ち取る、優秀な部下の獲得、的確な人選によって、曹操は大勝利を収めて大陸でも随一の勢力になるのでした。
その後も曹操の広大な支配地域の確立に尽力し続け、魏国の建国にも注力しました。随時曹操の期待に応え続けた荀攸でしたが215年、孫権討伐に向かっていたときに病に倒れ、そのまま陣没してしまいました。享年56歳。生涯に渡って支えてくれた軍師の死に曹操は深く悲しみ、その名が出るたびに涙したといわれています。
エピソード
・13歳の時、父の墓守をしたいと申し出てきた者に対して「あの人は様子がおかしい。何かを隠している」と叔父に告げ調べてみると、その者は殺人を犯した逃亡犯でありました。小さいときから、鋭い観察眼を持っていたことが分かります。
・曹操は荀攸のことを「荀攸は、表面は愚鈍に見えるが、内面は英知に溢れ勇気もある。善行を好んで、人に面倒を押し付けない」「荀攸は人の手本である。彼と行動をともにして長いが、欠点は一つもない。世にいう徳の人とは彼のような人を指すのであろう」とべた褒めしており、いかに信頼していたかが分かります。
・三国志作者である陳寿も「荀攸・賈詡(かく)にはほとんど失策がなく、古来の軍師に負けるとも劣らない」と評しています。
・荀攸には曹操軍内の機密を守る役割があり、それを徹底しました。数々の戦術を立てた荀攸でしたが、戦術発表まで、たとえ子弟であっても教えることはなかったといわれています。
私 見
表向きは大した事なさそうに見えながら、とんでもない能力を持っている軍師:荀攸。人に対しても分け隔てなく接することが出来る彼は、味方からすればとても頼りになる存在であったことでしょうね(見かけでは判断できない出来る軍師としては蜀のこの人もそうですが・・・)!
荀攸の長所は、
・正確な情報分析能力と戦術への組み込みが得意なこと
・人として成熟しており、敵を作りにくいこと
短所は、
・死亡するのが早すぎたこと
こんなところでしょうか。人として完成されており、優れた政治家・軍略家であったことから短所はほとんどないといっても過言ではないでしょう!現代に生きる我々も、情報を的確にキャッチして上手く人生に活かしきる!溢れる情報に対してどう向き合っていくのか、それを活かしてどれだけ多くの人たちの役に立てるかを真剣に考えなければいけない時代なのではないかと考えます!
いかがだったでしょうか。皆さんの人生に役立つことはありましたか?
この記事を読んだ方々に幸福が訪れますように!!