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さて、今回はあの覇王:曹操をも凌駕するほどの知略をもつ軍師をご紹介いたします!その生涯を一緒に学んで、人生のヒントを発見していきましょう!!
郭嘉:三国志シリーズより
「曹操殿、素晴らしき策です。我が策の1歩手前ですがね。」
英雄名
郭嘉(かくか) 字:奉孝(ほうこう)
生 涯
郭嘉は170年に生まれ、若い時から「先を見通す力」があるといわれておりました。27歳のとき、袁紹の下を訪れましたが、袁紹が大陸の覇者足りえない器であることを見抜いて失望すると、既に袁紹に仕えていた同郡の者達に主人の欠点を警告して、仕官せずに去っていきました。
その後、郭嘉の才能を高く評価していた荀彧により、当時信頼していた軍師を亡くして困っていた曹操に仕えるよう推挙されました。曹操と郭嘉は、天下のことを議論しすっかり意気投合。曹操は、「我が大業を成就させるのは、必ずやこの者だ」と大変気に入り、また郭嘉も「曹操殿こそ、真に私の主である」と言って喜んだといいます。これにより、郭嘉は曹操の新たな軍師として迎え入れられたのでした。
劉備が曹操の元に逃れてくると、曹操に対して配下から、劉備を今のうちに殺害するよう進言がありましたが、郭嘉は高名な劉備を殺害することで、曹操自身の評判が落ち、その後に優秀な者たちが曹操に仕官することをためらうことがあってはならないと、それに反対して曹操から高い評価を受けました。
198年、曹操は呂布を討伐した際、三戦三勝して呂布を籠城まで追い込みますが、守備の堅い呂布を攻めきれずにいました。曹操が退却もやむなしと思った時、郭嘉は他の軍師とともに、攻撃を継続することを主張しました。励まされ、思い留まった曹操は城を水没させる計略を見事に成功させ、勝利したのでした。
200年、南下を開始した袁紹と曹操は一大決戦に臨みます(官渡の戦い)。曹操が袁紹と官渡で対峙している最中、江東の孫策が曹操を急襲する構えを見せたために、曹操軍に動揺が広がります。その中で郭嘉は、孫策が江東の迅速な制圧のために、苛烈な粛清を行って多くの人から憎しみを抱かれているにもかかわらず、それを孫策自身が警戒していない様子から、近いうちに暗殺されるだろうと予想しました。その結果、孫策は狩猟中に刺客に襲われて重傷を負い、26歳という若さで命を落としました。
官渡の戦いで曹操が勝利を収め、敗れた袁紹が病没すると、その長男と末子が袁家の後継者争いを始めました。曹操は、その内紛につけこんで両者と戦い、これを撃破。勢いに乗って、一気に宿敵:袁家を滅ぼそうと諸将は意気込んでいましたが、郭嘉は「袁紹は、長男と末子のどちらが後継者か指名せず死にました。このまま我らが攻撃して両者を団結させるよりも、放っておけば更に激しい争いを始めます。南に侵攻すると見せかけて変化が起こるのを待つのが得策です」と語ります。曹操はこの言を採用、南を攻撃するため出兵すると、郭嘉の発言の通り、たちまち袁家は骨肉の争いを始めたのでした。機を見て、曹操は敗れた長男を滅ぼし、末子も烏桓(うがん)という北部地域まで追い立てます。
曹操が袁家滅亡と烏桓征伐を計画した時、部下の多くは南の雄:劉表が劉備を使って留守を襲ってくるのではないかと危惧していましたが、郭嘉は「劉表は、自分が劉備を使いこなせる器でない事を知ってます。劉備を重用する事はありませんから、我らは安心して遠征する事ができます」と言い、軍全体の不安を払拭します。結局その発言通り、劉備が動くことはありませんでした。
曹操の遠征軍が到達すると、郭嘉は「戦とは一瞬の遅れが運命を左右するので、早く動くことが重要です。我らは今、遠くの敵を襲撃するために荷物が多く、有利に敵地へたどり着くことは困難です。加えて、奴らが我らの現状を聞けば、守備を固める時間を与えてしまいます。荷物を残して、軽騎兵を昼夜兼行させて突撃させ、敵の不意を衝くべきです」と献策しました。曹操はこの策を採用して、また勝利を掴むことができました。後に、袁紹の末子は落ち延びた先で殺害されてしまう最期を迎えたのでした。
生涯にわたり、曹操に勝利をもたらし続けた郭嘉でしたが、病には勝てませんでした。38歳の時、柳城から帰還の後に倒れると、そのまま亡くなってしまうのでした。
エピソード
・優れた智謀をもち、助言が的確であったことから、曹操の絶大なる信頼を得ており、「わしの本当の心を理解しているのは奉孝のみである。」と言わしめたほどでした。
・大勢力であった袁紹との戦いを前に、曹操が郭嘉に意見を求めたとき「殿には10の勝因があり、袁紹には10の敗因があります。」とその違いを明確に説明したことで、曹操はまた郭嘉への信頼を高めたと伝わります。
・郭嘉は、優れた軍師である反面、その素行に問題があり、たびたび他の武将から注意を受けていましたが、全く気に留めなかったといいます。しかし曹操は、郭嘉の才能を評価していたので、最後まで重用し続けたのでした。
・郭嘉の死を曹操は大変悲しみ、その葬儀において「郭嘉はまだ若く、天下泰平の暁には、後事を託すつもりであった。」と言われたと伝わります。
・曹操は208年、赤壁の戦いで大敗したとき、「もし奉孝がいてくれたなら、このような負け戦ではなかったであろう。」と嘆いたといいます。
郭嘉:三国志シリーズより
私 見
情報分析能力と迅速な判断力を持つ郭嘉は、三国志の中でも屈指の実力者です。能力が高い分、傍若無人な態度であったとされ、そのギャップも彼の魅力の一つでしょう。生涯が短く、死ぬまで主君に献策してる姿は、豊臣秀吉の軍師:竹中半兵衛にも似ているように感じますね。
郭嘉の長所は、
・場や感情に流されることなく、冷静で的確な助言ができること。
・自身や相手側の現状を把握して、導き出す予想が正確であること。
短所は、
・素行が悪く、仲間から注意を受けても意に介さないこと。
・自身の病は先見できず、道半ばで亡くなってしまったこと。
こんなかんじでしょうか。現代くらいの医術があれば、病から復帰して曹操の行く道を照らし続けることができたのではないかと残念でなりません。しかし、郭嘉にしろ荀彧にしろ、予言をあてまくる軍師がいったい何人曹操に仕えているんだ・・・と驚愕しますね。
いかがだったでしょうか。皆さんの人生に役立つことはありましたか!?
この記事を読んでいただいた方に幸福が訪れますように!!