仁の世を目指す!劉備とは!?

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さて、皆さんの周りには、特になにもしているわけではないのに、人間的な魅力が溢れてる人っていますか?今回ご紹介するのは、三国志の歴史上、多くの英雄の心を鷲掴みにしながら、国を建てるに至った英雄の生き様をご紹介しようと、思います!その生涯を一緒に学んで、人生のヒントを見つけていきましょう!

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「私とともに行こう。太平の世を目指すために!」

英雄名

劉備(りゅうび)字:玄徳(げんとく)

生 涯(161~223年)

三国志の国の一つ、蜀の初代皇帝である劉備は、161年に中国のたく郡 (河北省) に生まれました。血筋をたどると漢の皇帝に繋がるとされますが、当時の身分は低く母とともに貧しい生活を送っていました。

ただ、劉備は若いときから不思議な魅力を持っており、男女問わず多くの人々を惹きつける人物でした。屈強な漢たちとも親交があり、その中で後に蜀を代表する将軍となる関羽張飛とも出会うこととなります。3人は本当の兄弟のように仲が良く、混迷する時代に自分たちの生き方を探し求めていました。

しばらくして、張角(ちょうかく)という新興宗教の教祖が世の中に不満を持つ民たちをまとめ上げ反乱を起こしました。劉備はその討伐軍に加わって活躍するものの、群雄割拠の時代には珍しく一定の領土を持たず、様々な群雄(曹操呂布等)とある時は同盟し、ある時は離反することを繰返しました。

官渡の戦いで袁紹と同盟して敗れると、南下して大陸中央部の荊州を支配する劉表(りゅうひょう)を頼りました。彼はそこで軍師として有名な諸葛亮三顧の礼をもって迎えました。

曹操が208 年に荊州を攻めると、劉備はいったん南に逃れ、孫権と同盟することに成功、呉と連携することで赤壁の戦いで曹操を打ち破り、勢いに乗って荊州を迅速に確保しました。

216年曹操が漢中に侵攻を企てると、大陸西部の益州を治めていた劉璋(りゅうしょう)からの援軍要請に応じて、義兄弟:関羽を荊州に残して進軍し、219年には劉璋を降伏させて蜀をその手中に収めることとなりました(!?援軍に行くふりをして国を獲ったわけやね!大胆な手をつかったね)。

しかし、その後荊州で関羽が魏と呉の連携によって殺さてしまい、孫権がその地を領有しました。

225年、後漢が正式に滅びると、翌年漢の跡を継いで成都に蜀漢国を建てました。翌年、義兄弟である関羽の仇を報じるという名目で呉に侵攻しましたが、大敗した上に病に倒れ、後事を諸葛亮に託して天に召されました。

三国志13より

エピソード

・高祖(劉邦)の血を引くと自称し(三国志演義では当時の皇帝の前で事実であると認められた)、漢の末裔として十分な資格がある可能性は高く、漢皇帝の末裔であるという名目があり(曹操、孫権などに比べて相当な身分である)、それに加えてどんな人物とでも積極的に関わる姿勢から当時の魅力は高かったものであると考えられます。

・中原を制した曹操からも「天下に英雄は君と余だけだ」、「劉備はわしと同等だ。ただ劉備の方が少しだけ策を考えつくのが遅いにすぎない」と群雄割拠する時代の英雄として、またライバルとして最大級の評価をされていました。

・人物眼が鋭く人材の扱いに秀でていました。
その当時、無名だった諸葛亮や龐統を用い、法正ら性格に問題のあるとされる人物も重鎮として能力を発揮させ、魏延や鄧芝といった次代を担う将を抜擢していきました。諸葛亮の愛弟子で秀才と言われていた馬謖の危うさを見抜いて重用しないように言い残したことでも知られています(劉備の死後、馬謖は実際に戦で大敗を期し、処刑されることとなる)。

・自国を得るまでは、君主を次々と変えており、それゆえに一部からは良くも悪くも相当な人物であると思われていました。しかしながら、当時地方に勢力を張れる血縁的な後ろ立てがないに乏しく、また大局的な身の振り方を考えられる、参謀が早期に居なかったのも理由の一つであるといわれてます。

劉備の放浪歴(演義含む)
劉エン配下→公孫讃配下→陶謙配下→徐州で自立→呂布配下→曹操配下→徐州で自立→袁紹配下→劉表配下→荊州南部で自立→益州獲得して成都を本拠地にする

流浪の人生や夷陵の戦いでの敗戦から戦下手と思われがちでありますが、彼が正面から大敗したのは、最期の夷陵の戦いぐらいで、その他では徐州の留守を呂布の裏切りにあったことや、曹操本人の率いる大軍の前に「少数では、多数に勝てない」という状況に陥った場合が大半であります。

敵より少ない数でも袁術とは互角に渡り合い、曹操に派遣された名将:夏侯惇らを荊州で撃破しています。もちろん、有能な部下が整い、戦力が充実し始めてからの荊州南部平定、益州奪取、漢中奪取などの短期間の勢力拡大は成るべくして成ったということでしょう。

本来、本当に戦下手であるならば、身を寄せた勢力の中で芽が出たり、良くも悪くも評価されたり、それらの勢力で最前線を任されていることからすれば、関羽・張飛抜きでも、その戦闘経験は、良く言えば重宝されていた、悪く言うなら利用されていたと考えられるでしょうね。

・武器は、旗揚げの時にから愛用している双剣:雌雄一対の剣(しゆういっついのけん)。愛馬は的盧(てきろ)という、乗り手に不幸をもたらすといわれる馬でしたが、劉備を乗せて河を渡って助けたり、劉備自身も気にいっていたことから乗りながら不幸になるということはありませんでした(しかし、乗り手が変わった場合は別で、龐統 はこれにより命を散らします)。

・部下である趙雲が劉備の子を守りながら、敵陣を駆け抜けて生還した時には、自身の子よりも部下の無事を喜んだということもありました。

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私 見

私のイメージですがこの人、現代でいえば、仁義という看板を掲げた極道の組長さんだと思ってます!!

それはなぜか、三国志演義やゲームの中でも聖人君子のイメージが強い人ですが、関羽や張飛といった猛将と関わりを持ち、無名の者たちを取り入れる優れた人物眼、次々と君主を変えながら流浪していく姿をみていると、割と強気で部下にとんでもない理想を語ることができるような人物じゃないかと思います!

故に、多くの部下たちが”親父!親父!!”と慕って付いてくるような仁義溢れる組長さんだと判断しました!

劉備の長所は、

人と積極的に交わることができること

・人物眼に優れ、人の性質と心情を見抜いて行動できること


・多くの人々を動かせる行動をとれること

短所は、

・自国をもつまでは、流浪の期間が長かったこと

・私憤によって大敗し、その後志半ばで倒れてしまったこと

こんなところでしょうか。この人から現代の私達が取り入れるべき部分は、

・多くの人々に自分の理想を説いて、その実現のために部下が喜んで力を貸してくれる人の動かし方

・優れた人なのかどうか、自分自身が動いて会うという行動力

この2点かなと感じます。
更に、自身の未来を描きながら自身の動きを決められるようになれば、現代の劉備玄徳として、私たちは進化することができるでしょう!!

さて、いかがだったでしょうか。皆さんの人生に役立つことはありましたか?

この記事を読んだ方々に幸福が訪れますように!!

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