名に違わぬ義の人!太史慈とは!?

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さて、今回は孫家の忠臣で弓の名手をご紹介いたします!その生涯を一緒に学んで、人生のヒントを見つけていきましょう!

太史慈:三国志シリーズより

「この信義、どこまでも貫き通す!」

英雄名

太史慈(たいしじ) 字:子義(しぎ)

生 涯

166年に大陸の北東部:青洲に生を受けた太史慈。若い時から学問を好み、信義を大切にする性格で、いにしえの偉人と遜色ない言動をしていたとされています。また、弓の腕前は高く、放てば百発百中でありました(すげぇや!(+o+))。

初めは郡の役人としてを務めましたが、この時でさえ評判は高かったといいます。かねてから太史慈を高く評価してくれていた学者:孔融(こうゆう)に母親の面倒を見てもらった際には、その恩義に報いるため、後に孔融が黄巾軍の残党に攻められた時、すぐに救援に駆けつけました(かっこええやんけ!(^.^))。

しかし状況は芳しくなく、城は包囲され、救援を呼ぼうにも敵側の攻撃は激しいものでした。

そこで太史慈は、ある作戦を開始します。まず、2人の従者を連れて城外へ飛び出します。敵は身構えますが、そこで従者に的を用意させ、弓の練習を始めたのです。「えっ、この状況で弓の練習だと!?・・まぁいいか(いいんかいw)」と敵兵はビックリしながらも、太史慈の弓の上手さに感嘆しました。それを何日も繰り返し、敵も「また練習か、よく飽きないなぁ」と関心を持たなくなったところを狙って、一気に敵の包囲網を突破。当時平原にいた劉備に救援要請の使者として赴きました。そして、劉備とともに援軍を連れて舞い戻り、黄巾軍を撃退することに成功するのです。

救出された孔融は、ますます太史慈を尊重し「あなたは私の若き友である」と称賛しました。太史慈は、母親にもこの事を報告すると「あなたが孔融殿に恩返しできた事を嬉しく思います」と褒められたといいます(お母さん大事にしてたんだね)。

孔融を助けた後、太史慈は同郷の出で、当時揚州を治めていた劉繇(りゅうよう)のもとへ身を寄せておりましたが、その元を立ち去らぬ内に小覇王:孫策の軍勢が攻めてきました。

太史慈が孫策軍を偵察しに出かけたときのこと。相手側からも馬に乗った人物がやってきました。「相手も偵察兵を放ったか。ならば、生捕って情報を吐かせてやろう」そう考えた太史慈は刀を構え、一騎打ちを開始しました。しかし、相手の兵士は強く、武に長けた太史慈と互角の腕前。「この勝負、預けたぞ!」そう言って去る太史慈。そう、この兵士こそ相手側の総大将:孫策であったのです!(なんというめぐり合わせ(*^。^*))

その後、劉繇は孫策の前に敗れ去り、太史慈も自ら兵士をまとめて抵抗しましたが、敗れて捕らえられてしまいます。以前の対決を通して太史慈の武勇を認めていた孫策は、自ら縄を解くと仕官してくれるように提案します。太史慈は「残兵を掻き集めてから、孫策殿のもとへ戻って参ります」と言って孫策の下を去りました。孫策は太史慈を信じて待ち続け、太史慈が約束通り残党兵を掻き集めて戻ってきたときは、大変喜んだと伝わります。

孫家に仕官した後は、他勢力からの防衛戦や賊徒の討伐戦等、数多の戦場に出て戦功を挙げ続けます。その武名や評判を聞いて、人材コレクターである覇王:曹操が引き抜きを掛けようとしますが、孫家に忠義を貫く太史慈には通じることはありませんでした。孫策は若くして亡くなりますが、跡を継いだ孫権にも、その高い忠義と武勇から重用されました。

しかし206年、孫家歴代の勇将も病気には勝てず、41歳で生涯を閉じることになりました。「大の男として生まれたのに、志半ばで逝くことになろうとは」と最期の言葉を残したといわれています。

三国志演義では、その言葉を汲んだのか、赤壁の戦いでも存命して大いに活躍しています。また翌年には曹操軍の猛将:張遼と壮絶な一騎打ちを演じますが、計略にかかり誘いこまれて矢傷を受け、それがもとで亡くなるという最期を迎えています。

エピソード

・太史慈は、身の丈177cmで武勇に優れ、ひげの似合う偉丈夫であったと伝わります。

・太史慈が弓の名手であったことを表すエピソードがあります。ある日、孫策と共に山賊を討伐しに行った時、遠くに見える砦の上から、一人の山賊が罵声を浴びせかけてきました。その山賊の手に木を掴んでいるのを見た太史慈は、弓を構えて一矢放ちました。飛んでいった矢は掴んでいた木と共に手を射貫いたと伝わります(那須与一かよ!(・。・;))

・郡と州(日本でいう市と県)が対立した際、都へ両者の上奏文を届ける役割を任せられました。この時、太史慈は機転を利かせて州側の上奏文を破り捨て、自身が世話になっている郡側に有利な処分を引き出すことに成功したといいます。

・正史では、皇帝に関する記述の次、また臣下ではなく群雄として語られていることから、当時どれだけの高い名声を得ていたかが分かります。

太史慈:三国志シリーズより

私 見

自分や親族が受けた恩を忘れず、自分の力をもってこれに報いる太史慈の姿は非常に魅力的です。また、弓術も蜀の黄忠・魏の夏侯淵にも負けないほど優れていました。こんな人が一生懸命に支えてくれる組織は幸せでしょうね。

太史慈の長所は、

・武力や勇気に優れ、自ら行動していくこと。

・受けた恩を決して忘れず、懸命に報いようとしていること。

短所は、

・信義を貫くために、過激なこともやってしまうこと。

・一説には、帝位を狙う野心を燃やし続けていたこと。

こんなところでしょうか。どこかに野心は持っていたかもしれませんが、生涯の多くを信義に捧げ続けた太史慈。字の子義という漢字に違わない義を貫く見事な英雄であったと考えます。現代でも受けた恩に、自分自身の行動をもって、しっかりと報いる姿勢は大事だなとも思います。

さて、いかがだったでしょうか?皆さんの人生に役立つことはありましたか?

この記事を読んでいただいた方に幸福が訪れますように!!







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