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さて、今回は黄巾党並びに群雄割拠の時代を起こさせた道士をご紹介いたします。その生涯を一緒に学んで、人生のヒントを見つけていきましょう!
「民を導くは帝にあらず。我が太平道のみよ!」
英雄名
張角(ちょうかく)
生 涯(???~184年)
時は後漢末期、天帝の威光は地に落ち王朝衰退の色が濃くなっていました。かつては賢人とうたわれた宦官も汚職を常とし、政治は混乱。大陸各地では天災・飢饉・異民族侵攻が次々と発生して人民は地獄のような日々を強いられていました。
中国大陸北部の鉅鹿郡(現在の河北省)に生まれた張角も一人の民として苦しい生活を送っていました。もとは学問好きの青年であり、役人を志していましたが試験に失敗して、山で薬草をとって暮らしていました。腐敗する王朝に怒りをつのらせる日々でしたが、ある時山で仙人に出会い「太平道術」という巻物を授かります。そこには人知を超えた秘術や薬について書かれていました。
仙人は「この教えを天下に広めなさい。もし悪い心で術を使えば、たちまち天罰がくだることになろう」といい、姿を消しました。張角は天下の民草を救うべく猛勉強してこの秘術を身につけ、天候さえも自在に操れるようになりました(マジかよ( ゚Д゚)!)。
術道を極めた後、張角は2人の弟とともに各地の病人を癒しながら、「太平道」の教えを広めていきました。苦しみを救ってくれる「太平道」は瞬く間に民衆の間に広まり、信徒は数十年の間に40万~50万人にまで増えました。
しかもその信者の多くは流民であったため、仲間が増えていくことで次第に「漢王朝を倒せるのではないか」という集団心理が生まれてきました。張角も次第に天下を望むようになり、いつしか「太平道」は宗教集団から、革命軍団へとその姿を変えていき184年、全国で一斉に蜂起したのです。
張角は自らを天公将軍と称し、所在の官庁を攻撃して村落を奪い10日のうちに全国各地を震撼させるほどの力を示しました。また、信徒たちは黄色の布を着けていたことから「黄巾党」と呼ばれ、それらが起した反乱をまとめて「黄巾の乱」と後世では語り継がれています。
はじめこそ勢いがあった「太平道」の反乱でしたが、所詮は烏合の衆。事態を重く見た大将軍:何進(かしん)が討伐軍を出すと、わずか10カ月で終息しました。その間に張角の身体は病に侵され、あっけなくこの世を去ってしまうのでした。
「黄巾の乱」鎮圧には、後に魏・呉・蜀の土台を作った曹操・孫堅・劉備も参加しており、これより後は彼らを含んだ群雄割拠の時代へと突入していくこととなります。
エピソード
・「太平道」は祈りをささげた符と水によって、人々の病を癒すものとされていました。張角は、病とは人の気持ちの「悪」によるものだと信じており、早く治れば信心深く、直りが遅いと信心が足りないせいだと決めつけていました。こうした効能がなければ病人が悪いとする巧妙な手口は現代の宗教犯罪や詐欺にも繋がる部分がありますね(皆さんも注意してくださいね!)。
・黄巾党のスローガンは「蒼天既に死す。黄天真に立つべし。(後漢はすでに死んでいる。黄巾党今こそ立ち上がろう!)」でありました。
・張角には、張宝(ちょうほう)・張梁(ちょうりょう)という2人の弟がおり、「黄巾の乱」の際にはそれぞれ知公将軍・人公将軍と称していました。しかし、2人とも討伐軍との戦いで戦死してしまいます。
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私 見
世の中を憂いて猛勉強した後、力を身につけて立ち上がった張角でしたが、徐々に野心を出してしまい最後は病魔に呑まれてしまいました。奇しくも「太平道」を授けてくれた仙人の「悪の心をもって術を使用すれば、天罰がくだる」との言葉通りの生涯を体現してしまったといえましょう。
張角の長所は、
・多くの人々を掴むカリスマ性を持っていること。
・自身の能力高める努力が出来ること。
短所は、
・野心に勝てなかったこと。
・多くの民の命を犠牲にして反乱を起こしたこと。
こんなところでしょうか。苦しい民を救うという最初の精神を捨てずに一宗教の教祖として割り切れれば、幸福な生涯を送れたことでしょう。しかし、最終的には野心におぼれ、救うはずの民の命を自らの反乱に使用してしまいました。現代の私たちも初志貫徹、力を持った後の立ち振る舞いを強く考えなければいけませんね!
さて、いかがだったでしょうか。皆さんの人生に役立つことはありましたか?
この記事を読んでいただいた方々に幸福が訪れますように!!
本から三国志の世界を学ぼう!!