楽しめ人生!前田慶次とは!?

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皆さん、こんにちは!こんばんは!うまぽよです!!

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さて、今回は戦国の世に現れた「かぶき者」をご紹介いたします!その生涯を一緒に学んで、人生のヒントを発見していきましょう!

前田慶次:信長の野望シリーズ

「せっかくの人生、楽しまなきゃ損・・・だろ?」

英雄名

前田慶次(まえだ けいじ)

生 涯

前田慶次についての出自は、文献が少ないうえに諸説あり、はっきりとはしておりません。名前も通称:前田慶次/慶次郎のほか、利益・宗兵衛など複数の名をもっていたとされています(傾いているねえ(*´▽`*))。

但し、織田家家臣の滝川氏の縁者であり、前田利家の兄:前田利久の養子となったのは確かで、現在では滝川一益の甥であったという説が有力なようです。前田家の養子となった慶次には、いずれは前田家当主の座に就くものとの期待もあったはずでしたが、信長の介入によって、前田家当主は叔父:利家と決定し、結果として前田家当主となることはありませんでした。

現代も「かぶき者(世間の常識にとらわれない者)」として、その名を轟かせる慶次ですが、そうなった背景には、こうしたお家の問題もあったのかもしれませんね。

前田家当主が利家となった後の足跡についても、はっきりしていませんが、尾張(愛知県西部)にしばし留まっており、織田家が武田家に侵攻をかけている最中に、堺の妙蓮寺で開かれた連歌の会に、自らを「似生(じせい)」と名乗って参加していました(自由だねえ(*´▽`*))。主家の戦いを差し置いて連歌の会に出席とは、風流を好む慶次らしいですね!(こういうこと・・・してみたいねえ(´・ω・`))

戦国の魔王:織田信長が本能寺にて命を散らすと、はじめ慶次は織田家の後継者争いで柴田勝家についた滝川氏とともに行動していたようですが、いざ戦が始まると前田家に戻り、佐々成政との戦いに参加しました。結果として、一時は城主の身分となりますが、書物に慶次の名前が出てくることはほとんどないことから、前田家の囲いの中からはみ出た存在であったのかもしれません。

1587年、養父:利久が亡くなると、さらに前田家との繋がりは薄くなり、慶次は、だんだんと雅の世界に傾倒していきます。名だたる連歌師や、武家古典の第一人者:細川藤孝(幽斎)などとの交流を密にし、連歌会を開いて風流オタクな日々を過ごしていたといわれています。

その後、嫌々(たぶん)前田家の一門として豊臣秀吉の「小田原征伐」や奥州の巡検に従軍しますが、その巡検から戻るとついに限界がきて、前田家を出奔してしまいます。さすがの利家もこの態度には激怒、血眼になって慶次を探させますが、そこを天下の人たらし:豊臣秀吉が助け船を出しました。

秀吉に召し出された慶次。虎の皮の衣を羽織り、マゲを片方に寄せて結った姿で登場すると、天下人:秀吉に対して、顔を横に向けて拝礼しました。マゲは正しい方向を向いてはいるものの、顔は横を向いていました。それを凝視する秀吉、静まり返る一同・・・静寂の後、プハァと慶次の奇妙な姿に喜んだ秀吉は、馬一頭を与えることを決定しました。それを聞いた慶次は「御免。」と部屋を出ていき、次はマゲや着物をしっかりと整えて再登場、整然とした作法によって馬を頂いた感謝の礼を述べたのでした。このギャップを見て更に慶次を気に入った秀吉は「お前ゃあこそ、天下御免のかぶき者じゃあ!!」と認めたことで、前田家もこれ以降、うかつに手を出せなくなったのです(いいねえ( *´艸`))。

出奔後も慶次は、連歌を愛して学び続け、相当な文化人へと成長していきます。

これより後、これまたいつか定かではありませんが、上杉景勝の下へ仕官します。一説では、上杉家家老:直江兼続とも文学を通して親交が深かったともいわれております。

1600年の「関ヶ原の戦い」に関連して起こった上杉家と最上家/伊達家の戦「長谷堂城の戦い」にも参加し、60歳を超えながらも素晴らしい活躍をみせたと伝わっております。

上杉家が徳川幕府軍に降伏すると、慶次は景勝に従って上洛。米沢へ移封することとなります。米沢の地へ移った慶次は、「無苦庵」という小さな住居を建てて晩年を過ごしました。

慶次の故地や没年に関しても、未だにはっきりしておりません。世間の常識にしばられない慶次は、死してなお、学者さんたちの頭をなやませる「かぶき」を見せているのかもしれませんね。

エピソード

・漫画「花の慶次」では身長197cm、巨大な朱槍を手にした剛力無双の武者として描かれています。そのイメージが強く、他のメディアでも大男として描かれがちな慶次ですが、実際の身長に関する記録はなく、山形県米沢市にある鎧のレプリカを見ても、そこまで大きいものではありません。

・愛馬は、日本に轟く名馬「松風」。規格外の足の速さに加えて、勇猛果敢な性格であったといわれています(全くサイコーかよ!!(/・ω・)/)。

・慶次には、人を小馬鹿にする癖があり、それを叔父:利家に注意されていました。ある時、慶次は利家に「日頃の行いを反省して、叔父上に茶を馳走させてください」と申し出、喜んでやってきた利家に「叔父上、風呂がいい湯加減ですので、まずはお入りください」と提案します。湯船に入った利家はビックリ!中身は水風呂であったのでした(やっちまったな!( ゚Д゚))。激怒する利家でしたが、慶次は利家から名馬:松風を奪うと逃走してしまうのでした。

・豊臣秀吉が開いた宴会にて、慶次は猿の面をつけて、参加者の膝に座っていく余興を行いました。無礼講で皆が笑って見過ごす中、上杉景勝の上だけには座りませんでした。景勝の威風堂々たる態度に「天下広しといえども、我が主たるは景勝様をおいて他になし」と慶次は感嘆していたのでした。

・とある傲慢な和尚を殴ってやりたいとの言葉を聞いた慶次。さっそくその和尚に囲碁の勝負を頼みます。慶次は対局に際して「勝者は敗者の頭を軽く叩くことにしましょう」と笑顔で提案して戦いました。一局目は和尚が勝ち、渋る和尚を慶次は説得してデコピン一発を食らいます。二局目に慶次が勝ち、渋る慶次を説得した和尚の頭をフルスイングでぶん殴ったといわれています(こいつすげえ( ;∀;))。

前田慶次:信長の野望シリーズより

私 見

混乱極まる戦国時代において、独特の価値観を持ち、自分に正直に生きた慶次の姿は、現代の私たちからみても凄まじい輝きを放っています。日本人は、とかく世間体を気にしすぎる傾向があり、常識から外れると批判の的になりますが、ここまで清々しく行動されると見事としか言いようがありませんね!

慶次の長所は、

・常識にとらわれない行動を起こせること。

・文化や教養も併せ持っていること。

短所は、

・好きに生きるあまり、人に迷惑をかけることがあること。

・いたずらの度合いが行き過ぎていること。

こんなところでしょうか。大勢に合わせて無難で確実な人生を歩むのか、常識や世間から外れても自身のやりたい、信じた道を貫き通すのか。慶次の生涯を勉強していくとその葛藤が生まれてワクワクします。まぁ、自分の好きな道を周りの協力を得ながら進めていけるのが一番いいですけどね!(*´ω`)

さて、いかがだったでしょうか。皆さんの人生に役立つことはありましたか?

この記事を読んで頂いた方に幸福が訪れますように!!







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