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さて、今回は甲斐の虎:武田信玄に仕えた隻眼の軍師をご紹介いたします!その生涯を一緒に学んで、人生のヒントを見つけていきましょう!
山本勘助:コーエーテクモゲームス
「背後を突いて誘き出す、故に啄木鳥とでも名付けようか」
英雄名
山本勘助(やまもと かんすけ)
生 涯(1493又は1500~1561年)
大河ドラマ「風林火山」の主役にもなり、武田家の名軍師として知られている山本勘助ですが、江戸時代後期に描かれた「甲陽軍鑑」という軍学書にのみ登場する人物であり、明治時代以降は架空の人物であるというのが通説でした。
しかし、昭和になってから「山本菅助」の名が入った書状が発見されたことで、現在では山本勘助は一応実在した人物であるという見方が有力となっております。
但し、実際は「甲陽軍鑑」に描かれているような軍師的役割ではなく、伝令将校レベルでそれほど立派な立場ではなかったのではとされています。また、書状の「山本菅助」なる人物が、一般に知られている「山本勘助」であるという証拠もないため、今後の研究が待たれているところです。
よって、ここに記載するのは「甲陽軍鑑」に記された勘助について見ていくことにいたしますね!
勘助は三河(現在の愛知県)、又は駿河(現在の静岡県)に生まれた後に三河の大林家の養子になったといわれています。
20歳を過ぎた頃から武者修行をはじめた勘助は約10年もの間、諸国(中国・四国・九州・関東)を巡って兵法を学び、陣法や築城術等を極めていきました。
そして37歳になると、勘助は今川家への仕官を希望して駿河に向かいましたが、今川義元が勘助の冴えない風貌を嫌ったために採用されませんでした。
自身の才能を活かせず悶々としていた勘助でしたが、築城や戦法を得意とする牢人(浪人と同義)がいると聞きつけた武田家家臣:板垣信方によって見いだされて信玄と対面し、武田家の家臣となりました(奇妙な運命ですよね~(^^♪)。
勘助はその際に他者から侮られぬよう、信玄から槍や馬等の支度を用意され200貫で取り立てられたといいます。この待遇は、当時牢人からの採用条件としては破格の待遇でありました。
仕官して後、信玄が信濃(現在の長野県)に侵攻した際には、勘助は9カ所もの城を陥落させる働きを見せて加増されました。さらに、武田家にとっては因縁の相手である村上家の砥石城を攻めた際、激しい反攻にあって総崩れとなりますが、勘助は50騎を率いて敵勢を陽動し、その間に態勢を整えるように提案。勘助の策に乗じて本来の士気を取り戻した武田軍は見事に村上軍を撃ち破り、この功績によって勘助は800貫まで加増されて足軽大将となりました。
武田家でもその力を認められた勘助は、次を見据えて軍神:上杉謙信に対抗するための城を築いたのでした。
1561年、勘助の読み通り謙信が1万3千の軍を率いて川中島に進出してきました。敵軍が山に陣を張ったのを確認した信玄は2万の軍を率いて城へ入ると、勘助に上杉軍を撃ち破る策を尋ねました。勘助はまず軍勢を大きく2つに分けて、その1つを上杉軍の背後に回らせ、夜明けに奇襲をかけさせる。すると、驚いた敵軍が山を降りてくるので、待ち受ける信玄の本隊とともに前後から挟み撃ちにするという「啄木鳥(キツツキ)戦法」を提案しました。
勘助の提案が採用されると、信玄は軍を2つに分けて進軍させました。しかし、相手は軍神:上杉謙信。武田軍の様子に違和感を覚えた謙信は勘助の策を既に見抜いており、武田軍から背後を突かれる前に素早く軍を前進させていました。夜明けとともに戦場の霧が晴れると、武田軍本隊の目の前には完璧な陣形を整えて突撃してくる上杉軍の姿があったのです・・・(やるな、軍神!(´゚д゚`))
信玄と雌雄を決するべく猛攻を加える上杉軍の前に、兵数の大半を奇襲に割いていた武田軍は大苦戦し、大将クラスの武将数人が討ち取られてしまう事態となってしまいます。勘助も信玄を守るべく自ら刀を手に奮戦しますが、激闘の末に戦死してしまうのでした。
エピソード
・勘助は色黒で隻眼、全身に傷があり、足が不自由で指もそろっていなかったとされています。冴えない容貌で、優れた軍略家といえば三国志のあの人を思い出しますねえ。
・信玄は信濃の諏訪家を倒した後、その姫を側室に迎えようと考えました。重臣たちの多くは遺恨の残る姫をもらうべきではないと反対しましたが、勘助は信玄とその姫に子ができれば、両家にとって絆となると考え、賛成しました。その後に姫は懐妊して、その子は武田最後の当主:武田勝頼となったのです。
・武田晴信が出家して「信玄」と名乗った際、勘助も出家して「道鬼斎」と名乗ったとされています。
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私 見
優れた軍略をもって甲斐の虎を支え続けた勘助ですが、未だに謎が多く性格や青年までもがはっきりしていません。個人的には大河ドラマ「風林火山」での、諏訪姫との微妙な関係性が楽しかったですね!
勘助の長所は、
・軍略に築城と幅広い知識をもっていること。
・武者修行に出る勇気や物怖じしない胆力があること。
短所は、
・軍神を破るまでには至らなかったこと。
・歴史書への記載が少ないこと。
こんなところでしょうか。渾身の奇策である「啄木鳥戦法」が破られた瞬間の勘助の絶望たるや凄まじいものがあったでしょうね・・・。ただ、時間の経過とともに背後からの部隊も合流して挟撃が成り、そのおかげで信玄は助かったとも考えられますから一概に失敗したとも言い切れないでしょう。
さて、いかがでしょうか。皆さんの人生に役立つことはありましたか?
この記事を読んだ方々に幸福が訪れますように!!
勘助の生涯を見るならこれでしょう!!