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さて、今回は秀吉の弟であり、方々に万能な将をご紹介いたします!その生涯を一緒に学んで、人生のヒントを見つけていきましょう!
豊臣秀長:コーエーテクモゲームス
「どれ、また兄者の後始末と参るか」
英雄名
豊臣秀長(とよとみ ひでなが)
生 涯(1540~1591年)
秀吉の天下を裏で支え続けたことで知られている豊臣秀長ですが、秀吉の異母兄弟であり実はいつ秀吉に仕えたかは定かではない武将であることはあまり知られていません。
秀吉が正室(ねね)と結婚したころであろうと推測されており、秀長が24歳の時であるというのが説として濃厚のようです。
当初は、秀吉からの細かい仕事を任せられることが多かったようで、その存在から「秀吉の補助的な存在」と周囲に思われていたようです。
秀吉の主君であった戦国魔王:織田信長が、朝倉家と戦っていたころには戦場にも出ており、浅井家が寝返って織田軍が挟み撃ちされた際には、殿を引き受けた秀吉とともに奮闘して生き延びました。
それ以降、秀吉とともに各地を転戦しましたが、特に播磨(現在の兵庫県西部)の攻略で功績をあげたといわれており、のちに但馬(現在の兵庫県北部)に領地を与えられて大名となりました。
1582年に「本能寺の変」が起き信長が倒れると、軍師:黒田官兵衛らとともに「山崎の戦い」に参加して武功を挙げ、さらに「賤ヶ岳の戦い」や「小牧・長久手の戦い」にも参加して豊臣が織田家に続く天下の軍であることを知らしめることに貢献しました。
しかし、膨大な武力を盾に他勢力に立ち向かうだけではなく、本来温厚で懐の深い性格であった秀長は、「四国征伐」において四国統一を成し遂げていた長曾我部元親を説得により降伏させる等、交渉力の高さもある武将でした。
この功績によって大和(現在の奈良県)の郡山城に入り160万石へと加増されました。
当時、秀長の領地は大和・紀伊(現在の和歌山県と三重県南部)の和泉(現在の大阪府の一部)といった寺社勢力が強い地域でありましたが、平和裏のうちに治めることにも成功しており、その交渉力や人徳がいかに高いものであったかがうかがえます。
さらに、「九州征伐」においても早くから島津家と交渉を行って最終的には降伏させています。
上記のように、秀長は秀吉の片腕として働きつつも無駄な戦いを好まず、人との”和”を大切にした人物でありましたが、そのストレスもあってか50歳ほどで病死してしまいます。
秀長がもう少し長生きしてくれたら・・・豊臣政権の長さも変わってきたかもしれません。
エピソード
・秀長はその人徳の高さから、様々な大名から秀吉にうまく取り次いでもらえないかという相談があり、その一つ一つに誠実に応えていました。
・秀長の家臣には、戦場での胆力、築城や造園に秀でた者たちが数多くいたとされています。
私 見
私は秀長も豊臣政権の長短を決めるキーパーソンの一人として認識しています。晩年は信長よりも感情の起伏が激しかったであろう秀吉を抑え、周囲の大名との潤滑油でもあった秀長を早くに失ってしまったことは豊臣の大損失といっても良いでしょう。
秀長の長所は、
・本来戦いを好まず、交渉事を通じて物事を解決しようとすること。
・人徳があり、多くの大名からも一目置かれていること。
短所は、
・寿命が短すぎること。
多くの人の調整役として、秀長の人生には多くのストレスが掛かっていたことでしょう。現代社会でも出来る人にばかり仕事が行き過ぎて、その人自体が体調を崩してしまうことも多々あります。一人一人が周囲の人間関係を良くするために努力して、ストレスの少ない社会に向かっていきたいものですね。
さて、いかがだったでしょうか。皆さんの人生に役立つことはありましたか。
この記事を読んだ方々に幸福が訪れますように!!