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さて、本日は織田・豊臣・徳川に仕え、優れた妻を持つ武将をご紹介いたします!
その生涯を一緒に学んで、人生のヒントを見つけていきましょう!
山内一豊:コーエーテクモゲームス
「今日も一つ、手柄を取って参る!」
英雄名
山内一豊(やまうち かずとよ)
生 涯(1545~1605年)
2006年の大河ドラマ「功名が辻」の主役としても知られている山内一豊は、1545年に尾張の国(現在の愛知県)に生を受けました。妻は、内助の功としても有名な才女:千代(ちよ)であり、戦国乱世をともに駆け抜けていくことになりますが、一豊自身も若き日は乱世の理にしたがって自らの武功で名を挙げていった武将でございます。
一豊が15歳の時、元の主君であった岩倉織田家が、戦国魔王:織田信長によって滅ぼされ、山内家は一家離散の目に遭っています。諸国を流浪した後、主家を滅ぼした信長の家臣:豊臣秀吉の与力となって本格的に戦場に立ったことから初陣は25歳と他社と比べて遅めでした。続く朝倉攻めにおいて、敵の弓矢が頬に当たり重傷を負いますが、敵将を討ち取る活躍を見せます。
その後も一豊は、自分が出陣した戦場で地味ではあるものの、着実に実績を挙げ続けて秀吉の直臣へ昇格。1582年に信長が”本能寺の変”にて討たれても、そのまま秀吉の配下で彼の天下獲りへ貢献しました。
元々、一豊自身は一人で戦局を覆せるほどの剛力無双の将ではなかったため、加藤清正や福島正則といった豊臣きっての猛将たちに混ざって出世していくためには、戦場の首級ではどうしても勝てませんでした。
そこで一豊は政治力を代わりに身に着け、それを発揮することで秀吉の高い信頼を勝ち取っていきました。
さらに、一豊は真面目で誠実な人柄であったことから人の信頼を得やすく、秀吉が亡くなった後に全国の大名が徳川家康率いる東軍と、石田三成率いる西軍に分かれた際には、いち早く家康の味方になることを諸大名のいる中で宣言。「自分の領土全てを家康殿にお預け申す!」という大胆な発言は、家康の心のみならず、ほかの諸将をも動かし東軍勝利の一端を担ったといっても過言ではありません。
そのため「関ヶ原の戦い」では目立った活躍はなかったものの、戦後に土佐(現在の高知県)を与えられたのでした。
3人の英雄に仕え、まじめに働いた一豊は60歳で死去しますが、その墓は二人三脚で頑張ってきた妻:千代と一緒に祀られています。
エピソード
・一豊は普段は、真面目でやさしく大声をあげたりもしない人物でしたが、戦場では一変。大声で味方に指示を出す勇猛ぶりを発揮しています。
私 見
戦国の世にあって、真面目に働いた一豊は妻の助けもあって着実に出世していきました。それは一人だけの力ではなく、夫婦合わせて頑張った証拠ともいえるでしょう!
一豊の長所は、
・分け隔てなく意見を取り入れること。
・他社と自分を差別化できる能力を考えて伸ばせること。
短所は、
・際立って強い能力が少ないこと。
・時世を読むのがうまい分、義理に疎いこと。
そんなところでしょうか。現代を生きる私たちも「真面目は良いこと」という教えを受けて育つわけですが、それが経済的な豊かさにイマイチつながらないジレンマがありますよね💦一豊のように、真面目な人がきちんと成功できる世の中にしていきたいものですね!
いかがだったでしょうか。皆さんの人生に役立つことはありましたか?
この記事を読んでいただいた方々に幸福が訪れますように!!