毛利の両川、武の一翼!吉川元春とは!?

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さて、今回は毛利家の次男で戦にめっぽう強い勇将をご紹介いたします!その生涯を一緒に学んで、人生のヒントを見つけていきましょう!

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「毛利が武、その目に焼き付けよ!」

英雄名

吉川元春(きっかわ もとはる)

生 涯(1530~1586年)

安芸(あき:現在の広島県)の勇将として広く知られている吉川元春は、元の名を毛利元春といい、後に中国地方全域を支配することになる謀将:毛利元就の次男として生まれました。ちなみに兄は教養名高い毛利隆元、弟は知略に優れる小早川隆景であり、親兄弟ともに粒ぞろいでございます!

1540年、こうした兄弟とともに育ったことで、元春も幼少期から非凡な才能をみせ、元服もしていない10歳にして初陣を飾っています(はっや!( ゚Д゚))。

1547年、元春は父:元就の策略もあって吉川家の養子となり、1550年に家督を継いで当主となると、完全に吉川家を掌握。同じ手法で小早川家へ養子に入って当主となった弟:隆景とともに、宗家を支える「毛利の両川」として大活躍していくこととなります。

1555年の厳島の戦いでもとは元春は毛利軍の先鋒として陶晴賢(すえ はるかた)を撃退することに成功。1557年に大内家を撃ち破って領地を広げると、元春は山陰地方の攻略を担当するようになりました。

相手は長年の強敵である尼子家でしたが、10年に渡る戦いの末に降伏させることに成功しました。この間、元春は数々の戦功を挙げており、才能溢れる毛利家の中でも、とりわけ武勇面において広く名声を高めていくこととなりました。

家族一丸となって活躍し、中国地方の最大勢力となった毛利家でしたが、織田信長の下で着実に力をつけていった戦国の出世頭:豊臣秀吉が立ちふさがりました。元春は果敢に戦い、何度も秀吉軍を押し返しますが圧倒的な物量を前に劣勢を強いられます。一時休戦の後、毛利家はその軍門に降ることを選ぶのでした。

その後、秀吉による1586年に「九州征伐」が開始され、出陣した元春は陣中に倒れ帰らぬ人となります。一説によると、元春は重度の秀吉嫌いであったとされ、そのストレスが死因につながったのではないかとも言われております。

エピソード

・元春の秀吉嫌いを表すエピソードとして、秀吉の天下が決定づけられると家督を譲って隠居したり、「四国征伐」の際も総大将を息子に任せて出陣していない等が挙げられます。

・元春は側室を持たず、正室には不美人を選び女色にふけることを避けていたともいわれますが、不美人であるという証拠はなく、また手紙を連名で出したりするほど仲睦まじく、多くの子宝に恵まれていました。

・元春は、長年毛利家にとって宿敵であった尼子家の本拠地を落城させ、その後尼子家再興を図る戦国一のドえm・・・ゴホン💦七難八苦の英雄:山中鹿之介らをも撃退する等、対尼子家に対してはめっぽう強い武将でありました。

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私 見

生涯76回の合戦において大きな敗けがない元春の武と、数々の謀略を張り巡らせる元就や隆景ら家族の知が相まったからこそ、毛利家の隆盛が築かれたのでしょう。家族を愛し、家族とともに歩んできた元春にとって、秀吉は織田家を乗っ取った不忠者に映ったのかもしれません。

元春の長所は、

・自分の才能を活かしきり、戦が大変上手いこと。

・下剋上の世の中にあって、身内に対する愛情が深いこと。

短所は、

・嫌いな者に対する対応が冷たすぎること。

こんなところでしょうか。戦の勝敗は率いる将の判断の鋭さにもあることから、良いものは良い、悪いものは悪いとハッキリ言える豪胆な性格が見て取れます。現代社会に生きる私たちも、多くの情報が飛び交う中で正確な判断をスピーディー行える能力が求められているのではないでしょうか。

いかがだったでしょうか。皆さんの人生に役立つ情報はありましたか?

この記事を読んだ方々に幸福が訪れますように!!

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