三本の矢の教え!毛利元就とは!?

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さて、今回は戦国時代きっての謀将であり、教育においても名言を残した武将をご紹介いたします!その生涯を一緒に学んで、人生のヒントを見つけていきましょう!

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「待て、矢を無理に折ろうとするでないわ」

英雄名

毛利元就(もうり もとなり)

年 表

まずは年表で流れを確認していきましょう!

・1497年:毛利弘元の次男として生まれる

・1516年:兄である興元が亡くなる

・1517年:初陣である有田の戦いにて勝利

・1523年:兄の子も亡くなり、当主となる

・1524年:弟:元網を討伐

・1525年:尼子家から大内家へ寝返る

・1541年:吉田郡山城の戦いにて勝利

・1542年:大内義隆の出雲遠征に参加する

・1545年:妻:妙玖(みょうきゅう)が亡くなる

・1546年:家督を長男:隆元に譲る

・1550年:次男:元春を吉川家当主に据え、三男:隆景を小早川家当主に据える

・1551年:陶晴賢が謀反。大内義隆が自害する

・1555年:厳島の戦いにて勝利

・1562年:出雲攻めを開始

・1563年:長男:隆元が亡くなる

・1565年:月山富田城を攻撃

・1566年:尼子氏が降伏

・1570年:山中鹿之助の出雲侵攻を撃退する

・1571年:死去する

生 涯(1497年~1571年)

中国地方の英雄として広く知られている毛利元就は、1497年に安芸(あき:現在の広島県)の地方領主であった毛利家の次男として生を受けました。元就は、利発的な子どもでありましたが5歳の時に実母を、10歳で実父を亡くし、果ては家臣にまで軽視されて貧しい時を過ごしました。

そんな元就を引き取って育ててくれたのが、義母:杉大方(すぎのおおかた)でした。彼女は元就の実父の側室でしたが、その後は再婚せずに一心になって元就を育て上げました。元就はこの献身的な教育によって家族間の愛情がいかに重要であるのかを深く認識するようになりました。

この頃の安芸は30にものぼる国人(地方の支配者)たちが争っており、西には6国を支配する「大内家」、東には8国を統制し中国一の太守とも呼ばれた「尼子家」がおり、強国に挟まれているような土地でありました。毛利家はその時々の状況によって前述した2国を右往左往していました。

元就が19歳の時、家督を継いでいた兄:興本が亡くなり、その嫡男:幸松丸が当主となります。しかし、幸松丸はわずか2歳であったために家中は乱れてしまい、その隙を突いて敵軍が攻め寄せてきました。

元就は、その迎撃任務に就きそれが初陣となりましたが、武名高い敵将を撃ち破り、さらに敵大将まで戦死させる活躍をみせました(毛利家台頭の一戦となったこの”有田の戦い”は別名「西の桶狭間」として語り継がれていくこととなります)。この活躍は世間にも広く知られることとなり、元就の名声を高めることにもなりました。

元就が27歳の時に幸松丸が亡くなり毛利家当主となりました。内部では、元就が当主となることに反対した一部の家臣たちを粛正・自刃させて家臣団の結束を固めつつ、外部では家督相続の際に計略を仕掛けてきた尼子家とは縁を切り、大内家の傘下に入りながら独立の機会を伺いました(怖い位に計画的・・・)。

自身の勢力拡大を図る元就は、山陽の小早川家に三男:隆景を、山陰の吉川家に次男:元春を養子として送り出すと、それぞれの反対勢力を粛正して両家を支配するという謀略をしかけて成功させました。これが有名な「毛利の両川」でございます。これによって、毛利家(元就)・小早川家(隆景)・吉川家(元春)による絶対的な協力体制を確立しました。

着実に地盤を固めていく元就に、またしても転機が訪れます。主家である大内家内で謀反が発生し、当主である大内義隆(おおうち よしたか)が陶晴賢(すえ はるかた)により討ち取られたのです。陶家は大内家の旧領支配に動き出し、そのためには毛利家の協力が必要と考え、元就に国人をまとめ上げる権限を与えました。元就は、日和見がちな国人らを連判状をもってまとめ、自らが仲裁役なってそれらの盟主としての立場を確立させていきました。

しかし、元就の急激な勢力拡充に危機感を覚えた陶晴賢が、態度を硬化させたことで両者は対立。元就は絶縁を宣言したその日に進軍し、怒涛の勢いで近隣諸城を攻略、敵軍の主要な武将を謀略を用いて抹殺しました。更には強力な村上水軍を味方につけて厳島に囮の砦を築かせて、陶晴賢をおびき出し討ち取ることに成功します(厳島の戦い)。

その後、1年半をかけて西方を全て手中に収めた元就は、「石見銀山」を所有する尼子家を次の攻略目標として設定しますが、相手は手ごわく4年もの間一進一退を繰り返すこととなりました。

そのさなか、将軍:足利義輝による和睦要請が来て応じたものの、尼子家から寝返るものが現れたことでこれを破棄。元就は調略を縦横に駆使して相手の勢力を確実に削りきり、最期は決戦を仕掛けて尼子家を滅ぼしたのでした(どんだけ謀略好きなんだよ!?)

結果、毛利家は元就の一代にして中国地方8国を支配する群雄として全国に知られることとなるのでした。しかし、その時元就は69歳。それからわずか5年後に息を引き取るのでした。

毛利家とは?

毛利家の先祖は、鎌倉幕府が開かれた頃に活躍した大江広元でございます(この人を祀っている胡子神社も紹介してるので、是非w)。広元の四男:季光(すえみつ)が毛利氏を名乗ってはいましたが、師親(もろちか)の代になって安芸(広島県)の吉田郡山(よしだこおりやま)を本拠地とし、これが毛利家の本格的な始まりといわれています。

師親の孫:光房(みつふさ)の頃から、毛利家は常に大内家に従っており、光房のひ孫:弘元が元就の父です(毛利家、同じ名前や読み方がいっぱいあって混乱する((+_+)))。

元就の兄:興本は、若くして亡くなってしまい、その子:幸松丸が継ぎました。この頃、山陰の尼子経久(あまご つねひさ)という武将の勢力が拡大して、元就は妻である妙玖の実家:吉川家を通じて尼子家に従うようになりました。

元就の一代で、弱小勢力から中国地方を束ねる大勢力になりますが、元就の跡を継いだ輝元は、天下は望まず豊臣秀吉に従いました。秀吉死後、1600年の”関ケ原の戦い”にて西軍に与したため領地を大幅に減らされてしまいます。

その後は、本拠地を移して江戸時代を生き抜き、明治維新後は公爵となりました。また幕末に活躍した高杉晋作や木戸孝允は、元をただせば毛利家の家臣であったのです。

エピソード

・元就の墓には「百万一心」と刻まれた石碑があり、皆が心を一つにすれば出来ないことはないという意味があります。しかし、この百と万の字は一画ずつ欠けていて、それぞれ「一日」「一力」とも読むことができます。この読み方で行くと「一日・一力・一心」となり、各々がその日に力を尽くして協力すれば何でもできるという意味にもなります。

・元就は妻や長男:隆元に先立たれており、家族を愛する元就にとってとても辛いものであったとされています。

・元就は「三子教訓状」という、3mにも及ぶ書状を書いています。内容としては「兄弟たちは結束持って国の運営・維持にあたる」といったことが書かれており、そこから派生したのが逸話「三本の矢」といわれています。

・「三本の矢」とは、元就が息子たちを呼び出し、まず1本の矢を折らせ、続いて3本の矢を渡したところ、誰も折ることができなかったことから3兄弟が力を合わせて毛利家を守ってほしいと告げるエピソードです。

・元就は家来や領民に優しく、自国にあってはどんな身分の者であっても等しく接したといわれています。

・家族に対して、「酒の飲み方」について指導していました。これは、毛利家当主が酒によって死亡していることが多かったため、注意してほしいと思った故の行動だといわれています。

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私 見

戦国でも指折りの謀将であり、名将でもある毛利元就。敵には計算高く、恐ろしい戦術を数多く仕掛ける一方、家族や味方には等しく優しい武将であることが今回書いていてよくわかりました。

元就の長所は、

・チャンスを逃さず、素早く行動できること。

・謀略を駆使して、大軍相手でも屈しないこと。

短所は、

・味方にならない者に対して容赦のないこと。

・状況に応じて、敵味方を変えること。

こんなところでしょうか。戦国乱世を生き抜くためには言葉通り”鬼”とならなければいけない場面も多く、元就の謀略は徹底していてえげつない印象を受けてしまいます( ゚Д゚)💦。しかし本質は家族を愛し、国を愛する人物だと思います。その心が広く浸透したからこそ、今でも英雄として語り継がれることとなったのでしょう。

さて、いかがだったでしょうか。皆さんの人生に役立つことはありましたか?

この記事を読んだ方々に幸福が訪れますように!!

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