キリシタン大名!大友宗麟とは!?

皆さん、こんにちは!こんばんは!うまぽよです🐴✨

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さて、今回は戦国時代のキリシタン大名における代表格をご紹介いたします!その生涯を一緒に学んで、人生のヒントを見つけていきましょう!

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「デウスの導きがあらんことを!」

英雄名

大友宗麟(おおとも そうりん)

年 表

初めに年表で確認していきましょう!

・1530年:大友義鑑(よしあき)の子として生を受ける

・1550年:父である義鑑が亡くなり、後を継ぐ。2か国の守護となる。

・1551年:ザビエルを招く。

・1552年:弟の晴央(はるふさ)が大内家に入る。

・1556年:豊前・筑前(現在の福岡県・大分県)の攻略に乗り出す。

・1557年:大内家が毛利家により滅亡。

・1559年:3か国の守護となる。

・1562年:出家して宗麟と名乗る。

・1567年:筑前秋月にて毛利家と争う。

・1569年:龍造寺家の佐賀城に侵攻。

・1570年:今山の戦いにて龍造寺家に敗北。

・1576年:長男である義統(よしむね)に後を譲る。

・1578年:キリスト教の洗礼を受ける。島津家に大敗。龍造寺家等から反乱。

・1586年:豊臣秀吉に助力を請う。

・1587年:豊臣秀吉によって九州攻めが開始されるが、死亡。

生 涯(1530~1587年)

九州のキリシタン大名として名高い大友宗麟は、1530年に豊後(大分県)の地で、鎌倉時代から守護大名を務めている名家・大友家の20代当主:大友義鑑(よしあき)の長男として生を受けました。

本名を大友義鎮(よししげ)といい、後に出家して大友宗麟、更にキリスト教入信後はドン・フランシスコという名前も持つようになります(名前を何個持ってんだ💦)が、本文では広く知られている宗麟で統一したいと思います。

若い頃の宗麟は、気性が荒く学問にも身が入らないというヤンキーであり、父:義鑑は次第に宗麟を疎ましく思うようになっていきました。

義鑑は後継者として宗麟ではなく、利発な三男を指名しようと画策しますが、その結果「二階崩れ」といわれるお家の内紛に繋がってしまい、義鑑と三男は殺害されてしまうのでした。宗麟は家臣(兼雷神):立花道雪たちの後押しによって、当主の座へと着いたのでした。

大内家当主となった宗麟は、家中の反対派の行動を迅速に抑止しつつ、巧みな外交戦略をもって着実に基盤を固めていきました。隣国の毛利元就には何度も苦しめられ、1570年の「今山の戦い」では大敗を喫して領土の一部を奪われましたが、1571年に元就が死亡すると情勢は一変。北九州の反乱勢力は宗麟に従うようになり、豊後・豊前(福岡県東部と大分県北部)・筑前、筑後(ともに福岡県)・肥前(佐賀県と長崎県)・肥後(熊本県)の6か国を支配する大大名となりました。

1576年、長男:義統に家督を譲って隠居しますが、宗麟は次第にキリスト教へ傾倒していくようになります。また、隠居したものの影響力は衰えず、実質は長男との共同政治でありました。

1578年、宗麟はキリスト教王国を日向(宮崎県)につくろうと出兵しますが、「耳川の戦い」で島津家に大敗し多くの家臣を失ってしまいます。これをきっかけに各地で大友家への反乱が続出し、領土がドンドン削られていきました。

1586年、島津家に滅亡の一歩手前まで攻め込まれますが、宗麟は自ら大阪に赴いて豊臣秀吉に助けを請いました。秀吉はこれを認めて翌年に「九州攻め」を開始し、大友家の滅亡は阻止されました。しかし、領土として残ったのは豊後1国のみであり、かつての隆盛は見る影もありませんでした。

宗麟自身も「九州攻め」の間に58歳で亡くなってしまうのでした。

大友家とは?

大友家は、相模(神奈川県)の大友郷にはじまりますが、3代当主:頼泰(よりやす)のときに豊後(大分県)に移り住んだといわれています。その後少弐家・龍造寺家とともに九州を3分する勢力として確立しました。

1496年、17代当主:義佑(よしすけ)のとき、対立する父:政親(まさちか)によって暗殺され、その政親は大内家により殺されてしまいます(なんという殺しの連鎖)。叔父:親治(ちかはる)が跡を継いで混乱を鎮め、その子:義長(よしなが)も、分国法を定めて大友家の安定に努めました。

1520年、20代当主:義鑑は跡目を巡って家来に殺され、その長男:宗麟が跡を継ぎました。

宗麟になると、大内家は北九州6か国を支配して隆盛を極めますが、1578年に島津家に大敗してピンチに陥りました。島津家の勢いは凄まじく、大友家の主城にまで迫りますが秀吉の「九州攻め」に救われました。しかし、領地は豊後1国にまで削られてしまうのでした。

宗麟の長男:義統の時代では文禄の役での臆病な行動により、ついに領地を失います。更に1600年の関ケ原の戦いでも、西軍について謀将:黒田官兵衛と戦いますが敗れてしまいます。それによって大友家の復興は潰えてしまうのでした。

エピソード

・蹴鞠や茶道、絵画といった文化に長けており、特に蹴鞠に関しては幼少期より学んでいたといわれています。

・宗麟の部下には、雷神:立花道雪や忠義の士:高橋紹運といいた優れた者たちがおり、大友家隆盛に寄与しました。

・ある時、国事を蔑ろにして宴を楽しんでいると、雷神:立花道雪によって叱られたとも伝わります。その他にも、道雪からは度々叱られており、その度に反省したそうです。

・戦国時代に最速で国外外交を行っており、カンボジア王国との親善を交わしています。また、ヨーロッパのローマに使節団を派遣しています。

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私 見

国内外を問わず文化に明るく、政治や戦においては優秀な部下を用いて戦うイメージのある宗麟ですが、部下に激しく叱責されて反省したり、大きな戦では大敗を喫しているなど所々に完璧ではない人間性が出ていて個人的には好感が持てる武将だと感じております。

宗麟の長所は、

・自国のみならず他国の文化も尊重していること。

・大将自ら交渉に行ったり、戦場に出ていること。

短所は、

・好きなことに傾倒しすぎていること。

・戦において多くの部下を死なせていること。

こんなところでしょうか。文化を愛する一方で、やや我が強い傾向にあり、戦国時代においての求心力が天下人たちと比べると今一歩及ばずといった感じがします。現代ならば、一流のアーティストとして大成功している!・・・かもしれませんね(^^♪

さて、いかがだったでしょうか。皆さんにとって役立つことはありましたか?

この記事を読んでいただいた方々に幸福が訪れますように!!

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