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さて、今回は身を削って徳川家を支え続けた勇将をご紹介いたします!その生涯を一緒に学んで、人生のヒントをみつけていきましょう!!
井伊直政:信長の野望シリーズ(コーエーテクモゲームズ)
「いざ!我が猛攻、出来るものなら止めてみよ!」
英雄名
井伊直政(いい なおまさ)
生 涯(1561年~1602年)
徳川家康に仕え、徳川四天王の1人として広く知られている直政ですが、その人生の始まりは決して順風なものではありませんでした。
井伊家は代々、遠江(現在の静岡県西部)の領主を務めており、今川家に仕えていました。しかし、魔王:信長が、その名を世に知らしめた戦「桶狭間の戦い」にて、直政の祖父が戦死してしまい、父親も今川家から謀反の疑いをかけられて処刑され、直政自身も主家である今川家から命を狙われることとなります。
この苦境を救ったのが、隣国:三河(現在の愛知県東部)の大名であり、直政が生涯をかけて仕えることとなる徳川家康でした。15歳のとき、家康にその才能を見出された直政は、小姓として仕えるとともに、武田家との戦いで戦果をあげていきます。22歳で元服すると、その功績が認められ、家康直属の部下(旗本)へと昇進を果たします。更には政治の才能も開花し、家康は絶大なる信頼を直政に寄せていきました(どんだけ才能あるんだよ!)。
その後、かつて戦国最強と謳われた武田家が滅亡すると、直政は武田旧家臣を束ねる役目を担い、猛将として知られていた山県昌景の”赤備え”を承継しました。戦場に朱色の軍装で統一されたその姿は、直政個人としての武勇の高さに加えて、鍛え抜かれた部下達が合わさり、戦国屈指の精鋭部隊として、周囲の大名達に「赤鬼」として恐れられました。
直政は戦において、陣を張っておとなしくしているタイプではなく、自ら積極的に前線に出て戦う、根っからの武闘派でした。秀吉の天下を決定付けた「小田原征伐」でも、天下分け目の「関ヶ原の戦い」でも、”井伊の赤備え”を率いて先陣を切って活躍、多大なる功績によって戦後、18万石の領地を与えられました(年齢的に考えると出世のスピードは激早!!)。
家康のために文字通り粉骨砕身で尽くし、家康の天下取りのために活躍した直政でしたが、その性格が逆に仇となり、戦場での傷が原因で病床に伏せると、42歳という若さで亡くなってしまうのでした。
エピソード
・直政は容姿端麗で、仕事では心遣いを忘れなかったといわれております。
・直政は、自分と同じように部下にも非常に厳しかったとされています(その怖さは、味方武将が怯え、部隊から脱走者がでるほど)。
・味方さえ怯えさせる直政でしたが、妻には頭があがらなかったといわれています。
・幼き直政を教育したのは、大河ドラマにも取り上げられた女城主:井伊直虎でありました。
・戦場での活躍はもちろん、政治・外交にも優れた才能がありました。
・茶の席にて、家康から秀吉に寝返った武将に対して「裏切り者と同席することは、お断りいたす!」と怒鳴ったといわれています。
・元は外様な上に、若くして大出世した直政に対して、周囲からかなりの陰口・プレッシャーをかけられていましたが、黙って功績を立て続けました。
井伊直政:信長の野望シリーズより(コーエーテクモゲームス)
私 見
自らが先陣に立って戦場に立ち、槍を振るい、内外政治に優れる直政は正に万能の武将であったのでしょうね。若き日の自分を救ってくれた家康のために、積極的に動くその姿は忠誠心に溢れ、他国の武将から多くの賞賛を得ています。
直政の長所は、
・リーダー自らが先頭に立って戦うこと。
・高い忠誠心をもって、組織に尽くしていること。
短所は、
・自分や部下に厳しすぎること。
こんなところでしょうか。短所の部分は、周囲からの圧力に負けないためであったように感じます。現代においても、リーダーがまずもって動いてこそ、部下達の士気も上がり、ひいては組織の力が遺憾なく発揮されるものと考えます。
さて、いかがだったでしょうか。人生に役立つことはありましたか?
この記事を読んでいただいた方に、幸福が訪れますように!!