交渉術の達人!魯粛とは!?

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さて、今回は三国志でも屈指の交渉術をもつ智将をご紹介いたします!その生涯を一緒に学んで、人生のヒントを見つけていきましょう!

魯粛:三国志シリーズより

「それでは、互いの利益を洗い出してみましょうか。」

英雄名

魯粛(ろしゅく) 字:子敬(しけい)

生 涯(172年~217年)

172年に生を受けた魯粛。誕生後、すぐに父が死去したため、祖母と生活をしていました。裕福な豪族の家に産まれながら、家業に囚われず、自分の財産を投げ打ってまで困っている人たちを助けながら、地方の名士と親交を深めていきました。

魯粛は体格に恵まれ、若いころから大人顔負けの信念と礼節を持ち合わせており、知略を巡らせることを好みました。時世を読み、天下に争乱の予感を感じると、剣術や馬術などを習得していきました。更に、私兵を集めて狩猟等を行ない、兵法の習得や軍事の訓練にも注力しました。人より先を読む力に優れすぎていたために、こうした行動は地元の人たちには理解されず、村の長老には「魯家に、キチガイが生まれてしもうたわい\(゜ロ\)(/ロ゜)/💦」とまで言われてしまいます(爺さんめ、賢人をバカにしおって・・(T_T))。

地元の評価とは反対に、魯粛の行動力と名声は高まり続け、かのイケメン軍師:周瑜が県知事クラスの役職であった頃、わざわざ魯粛の元に挨拶に訪れて資金や食料の援助を求めにくるほどでした。この時、魯粛は自分の所有している2つの倉の内、片方をまるっと差し出しました(え、、、すごくない??(・。・;))。周瑜は魯粛の非凡さと判断力に感服し、これを機に親交を深めていきました。

時がたち、魯粛は名門:袁術に誘われて配下となり役職を与えられますが、袁術のメチャクチャな素行に耐え切れず、親交を重ねてきたイケメン軍師:周瑜を頼ります。周瑜は自分の君主:孫権の素晴らしさを説明し、それに感銘を受けた魯粛は他勢力からの仕官の誘いを蹴って、孫権に仕えることを選ぶのでした。

孫権は、魯粛の人柄や才能を大変気に入り、酒を一緒に飲みながら天下について語り合いました。そこで魯粛は「天下は今、大いに乱れているので、殿はしっかりと地方を確保しつつ、世の中の流れを見極めるべきです」と提案しました。これには「孫権が帝位につくべき」という大胆な考えが含まれており、孫家の重臣から苦言を呈されますが、孫権はこの発言を聴いてますます魯粛を信頼するようになりました。

その後、大陸北部の大半を平定して勢いに乗る覇王:曹操が南下を開始。大軍を引き連れて、孫権に降伏を迫ってきました。ここにきて、孫権陣営は曹操に対して抗戦派と降伏派に割れてしまいます。魯粛が選んだのは抗戦派。孫権に「殿が曹操に降伏しても何の利益もありませぬ。勢力は小さくとも、高い名声や粒ぞろいの配下を持つ劉備と同盟して抗戦すべきです」と助言します。孫権は、さっそくその意見を取り入れて、魯粛を劉備のもとへ派遣しました。

劉備は、孫権との同盟に大いに喜び、魯粛はこの機を逃さず劉備や天才軍師:諸葛孔明(以降、諸葛亮)と親交を深めることに成功します。そして諸葛亮を連れて帰国すると、周瑜とともに改めて曹操に対して徹底抗戦を主張しました。それを聴いた孫権は周瑜を総指揮官に任命、魯粛を補助役として抜擢し、赤壁の地にて曹操との大決戦を行うことを決定したのです。

赤壁での戦いは、周瑜の策略が成功して孫権・劉備連合軍が大勝利を収めました。赤壁の戦いの直後、劉備は孫権が狙っていた大陸中央部である荊州(けいしゅう)の大半を奪い取り、得た領土の自治を孫権にお願いしてきました(このあたりが劉備のしたたかさ( ;∀;))。これには周瑜や諸将も反対しますが、魯粛は曹操という大敵に対抗するためには劉備に力を与えておくべきである考え、これに賛成します。孫権は悩んだ結果、劉備に荊州を「貸し与える」という形で治めさせました。

このような中で周瑜が没し、その遺言により魯粛は後継者として選ばれ、周瑜の業務を引き継ぐ立場となりました。

それからも、荊州を巡って何度か劉備軍との紛争が起こるようになっていましたが、魯粛は劉備と同盟して覇王:曹操に対抗することに主眼を置いていたため、劉備達には常に友好的な態度で接し、事を荒立てないよう尽力しました。

しかし215年、劉備が大陸西部である益州(えきしゅう)を得たことを知った孫権は「貸し与え」ていた領土の返還を求めましたが、劉備に拒絶されたため、ついにブチ切れて、力づくで領土を取り戻すことを決定しました。領土を次々と奪還していきますが、劉備との同盟関係は崩壊してしまいました。そんな中、劉備軍との交渉の機会が訪れます。交渉相手は軍神:関羽、誰もが戦場で会えば恐れおののく勇将です。

そんな関羽に対して、魯粛は常に毅然とした態度で臨み「荊州の土地は劉備殿が当初、住むところがなかった為に我が殿が貸し与えたものであり、今、拠って立つ地を得たのにもかかわらず、返還を拒否するとは・・・それが仁君のやることですか!」と関羽を責めました。更に、劉備軍の配下が「土地は徳のあるものが所有するのであって・・・」と言い始めたので「だまらっしゃい!!そちらの行動のどこに徳があるというのか!あなたは話に値しない、出ていきなさい!!」と叱責を喰らわしました(か、格好いいじゃない(*´▽`*))。その態度には、関羽も圧倒され、劉備に不利な状況も発生したことと相まって、全部とはいかないまでも領土の割譲に成功かつ孫権・劉備同盟は復活したのでした。

劉備と孫権の同盟に注力した魯粛でしたが、病には勝てず217年に46歳で死去してしまいました。孫権は深く悲しみ、葬儀にも直々に参加したといいます。

エピソード

・魯粛の才能は、孫権の兄であり小覇王と称された勇将:孫策からも認められており、客人としての待遇を受けていました。

・魯粛の死から12年後の229年、孫権は呉の皇帝となります。祭壇に登った孫権は群臣たちに向け「魯粛は、遥か昔からこうなる事を知っていたのだ」と言い、敬意を示したとされています。

・魯粛の性格は、公平で才能に溺れることもなかったとされ、生活も質素なものであったといいます。更に、武術にも長け、書物を手放さず、思慮深い人物であったとも言われています(ん~?完璧超人かな( ゚Д゚)??)

・赤壁の戦いの後、魯粛の活躍を称えるため、孫権は配下を並ばせて迎え入れ「私が下馬して出迎えたならば、君の功績を十分称えたといえるかな?」と問いました。魯粛は「いえ、不十分ですな。殿が天下の皇帝となり、御車で迎え入れて頂いたときにこそ、私は十分に称えられたといえるでしょう!」と返すと孫権は、その大胆な発言に手を叩いて笑ったとされています。

・魯粛は、呂蒙(りょもう)という武将の才能を見いだして自身の後継者に指名しました。後に呂蒙は、蜀の軍神:関羽を討ち取る活躍をみせます。ここにも先見の明があったといえますね!

魯粛:三国志シリーズより

私 見

三国志演義(小説)では、諸葛亮と周瑜に挟まれて、胃が痛くなるような役割ばかり押し付けられているイメージがあった魯粛ですが、正史では文武に優れた上に肝も据わっている名将であったことが今回調べて分かりました。

魯粛の長所は、

・交渉や議論の場において、しっかりと自分の意見を伝えることができること。

・高い身分にあったのにもかかわらず、質素な生活と公平な態度を崩さなかったこと。

短所は、

・基本的に立ち回りは上手いが、ときに自分の意見を前に出しすぎること(爺さん受けが非常に悪い)

・三国志演義(小説)での扱いがひどいこと。

こんなところでしょうか。自分の才能を磨き続け、驕ることなく人に接し、論点を外さない魯粛の生き方は、洗練されてとても好感がもてますね。現代の私たちも自分の主張をはっきりと伝え(もちろん正しい意見ね?w)、自らも常に成長し続けることが大事だと考えさせてくれる英雄であります。

さて、こんなところでしょうか。皆さんの人生に役立つことはありましたか?

この記事を読んでいただいた方に幸福が訪れますように!!







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