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さて、今回は風林火山の旗の下、戦国最強の騎馬軍団を率いた名将をご紹介いたします!その生涯を一緒に学んで、人生のヒントを発見しましょう!
「これも我が王道のため・・・いざ、出陣せん!!」
英雄名
武田 信玄(たけだ しんげん)
年 表
まずは、年表で確認してみましょう!
1521年 武田家に生を受ける。
1536年 元服し晴信となる。公家の三条家から正室を迎えた。
1541年 父:信虎を追放して、武田家の当主となる。
1542年 信濃(長野県)の諏訪氏を滅ぼす。
1547年 「甲州法度之次第」を制定する。
1553年 第1次川中島の戦い発生。
1554年 今川家・北条家との3国同盟を締結。
1555年 信濃のほとんどを平定する。第2次川中島の戦い発生。
1557年 第3次川中島の戦い発生。
1559年 出家して信玄と名乗ることに。
1561年 第4次川中島の戦い発生。
1563年 上野(群馬県)をめぐり、上杉謙信と覇をきそう。
1564年 第5次川中島の戦い発生。
1566年 上野の西部地方を攻略する。
1567年 長男:義信を死に追い込み、今川家との同盟を破棄する。
1568年 駿河に侵攻。北条家との同盟も破棄する。
1570年 駿河を攻略する。
1571年 徳川家康と争う。北条家との再度同盟締結。
1572年 上洛を開始、三方ヶ原の戦いで徳川軍に勝利。
1573年 病にて亡くなる。
生 涯
「甲斐の虎」として名高い武田信玄は、名門:甲斐の武田氏の18代目、武田信虎の長男として生まれました。
幼少より高僧から学びを得ていた信玄は利発な少年でしたが、父:信虎からは徐々に疎まれていくようになります。
1536年い元服した信玄は、信濃攻略に動いた父に従い、佐久郡の攻略戦にて初陣を飾ります。その後も父についていった信玄でしたが、父との不仲は一向に直らず家臣たちは不安に思いました。また、領民からも度重なる侵攻に不満の声が続出します。
1541年、こうした現状に耐え切れず信玄は家臣たちの協力を得て、父:信虎を当時婚姻関係にあった今川氏のもとへ追放したのでした。
幼少期から儒教に触れ「親孝行」を説かれていた信玄にとって、この追放は辛いものであったと推測しますが、父よりも領民や家臣に対する責任をとった信玄の行動なのでしょうね。ただ、父:信虎の追放に関して領民や家臣から際立って異を唱えるものがいなかったということもあります。。。父ちゃん、どんだけ嫌われてたの??
こうして19代目武田家当主となった信玄は、父を反面教師として家臣を大事にし、そのアドバイスもきちんと聞いて家中の結束を強めていきました。
1542年、諏訪氏の内紛に乗じて諏訪併呑をきっかけに、信濃へ侵攻を開始します。この頃に、優れた部下である真田幸隆・山本勘介を幕下に加えています。
その後、勢いに乗った信玄に危機感を抱いた信濃の実力者:村上義清や小笠原長時の逆襲にあって、板垣信方や甘利虎泰等の重臣を失いました。しかし、自身の慢心を正した信玄は、軍略を用いて村上・小笠原の戦力を削ぎ落として撃破し、両名は上杉謙信のもとへと落ち延びました。
かくして、1553年に謙信と北信豪族連合軍が南下して、第1次川中島の戦いが発生します。以後12年間に5度も川中島で謙信と戦うことになりますが、最初の戦いで謙信の強さを知った信玄は、できる限り正面からの勝負を避けたといわれています。
第4次川中島の戦いでは、名将であった弟:信繁や軍師:山本勘介が討ち死にする悲劇にあいますが、川中島周辺の豪族を戦や軍略で取り込みながら、最終的には信濃の大半を手中に収めました。
信濃を攻略すると信玄は、西上野も攻略。1560年に今川義元が織田家に討たれると、義元の娘を娶っていた自身の長男:義信に猛反対されながら、駿河攻略を決意します。息子との不和から家中に流れた不穏な空気を一掃するため、やむを得ず大粛清を行い、長男:義信は2年後に自刃することになってしまいます。
1568年、信玄は信濃攻略を開始すると、徳川家・北条家と戦になり、1570年には完全攻略を果たします。
この頃、全国に信長討伐の御内書が発送されており、それを受けた信玄は上洛を開始して、途中で徳川家康を後々まで震え上がらせるほどに叩き潰します。しかし持病の肺結核が悪化、天下への道半ばで亡くなってしまいました。
エピソード
・信玄の強さの本質は、負けない戦をすることであり、「戦の勝率は5、6割で良いのだ。7、8割も勝つと油断して、9、10割勝ってしまえばおごってしまうものだ。」と言っています。
・優秀な人材であれば、身分や出身に関係なく積極的に登用しました。「人は城、人は板垣、人は堀。情けは味方であるが、仇は敵である。」という言葉は有名です。
・政治に注力した信玄は「甲州法度之次第」という法律を制定し、それは現代の民法にも活かされていると言われております。また、信玄堤という堤防工事も行い完成させています。
武田家とは?
武田家は、平安時代の末期から甲斐国(山梨県)に定着、影響力をもつようになりました。
戦国時代になり、一族同士の内部騒動で分裂しますが、信玄の父:信虎がその統一に成功しました。躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)を本拠として、城下の整備を行いました。しかしながら、信虎は人格的に問題があり、反抗する部下を追放したり、領民に重税を課していました。
この状態では、また武田家が分裂してしまうと感じた信玄は、部下達とクーデターを起こして、父を追放し武田家の当主となったのでした。
そして、政治に注力する一方で、甲斐のほかに、信濃(長野県)・上野(群馬県)西部地方・駿河などを領地とします。その中で、今川家・北条家と同盟を結んで、上杉家・織田家・徳川家等と争いました。
1572年、信玄は上洛の最中に道半ばで病死してしまいます。子:勝頼が後を継ぎ、一時は領地を広げるものの長篠の戦いで織田家に大敗。その後1582年に滅亡してしまいました。
私 見
部下や領民を大切にした信玄は、当時の大名として凄まじい勢いがあったと予想します。家臣団も「武田二十将」といわれる秀才たちの集まりで、真田幸隆、馬場信春、山県昌景、内藤昌豊、高坂昌信といった鼻血が出るような人たちばかりです。
信玄の長所は、
・巧みな軍略と用兵術で、各地の群雄をもってしても、敵わないほど強いこと。
・領民や家臣を大切にしており、且つ自身も失敗を糧に成長できること。
短所は、
・時代の流れとはいえ、父や息子への対応がひどすぎること。
・目的のためには同盟だろうが、親戚だろうが関係なく攻め立てること。
こんなところでしょうか。下克上の世の中ですから、肉親であっても厳しく当たらなければ国を安定させられない現実があったんでしょうね。信玄が父や子供と暖かい家庭をもてなかったことは残念でなりません。
いかがだったでしょうか。皆さんの人生に役立つことはありましたか?
この記事を読んでいただいた方に幸福が訪れますように!!