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さて、今回は九州から全国にその武勇を轟かせた猛将をご紹介いたします!その生涯を一緒に学んで人生のヒントを発見していきましょう!
「島津の強さ、その身をもって知るがよいわ!!」
英雄名
島津義弘(しまづ よしひろ)
年 表
まずは、年表でみてみましょう!
1535年 島津貴久の子として正を受ける。
1554年 岩剣城攻めにて初陣。
1564年 日向(宮崎県)へ移る。
1566年 父:貴久のあとを兄:義久が継ぐことになる。
1572年 木崎原の戦いで伊東氏に勝利。
1578年 耳川の戦いにて大友宗麟に勝利。
1581年 相良氏を降伏させる。
1587年 根白坂の戦いで豊臣軍に敗北。
豊臣秀長に降伏する。
大隅(鹿児島県)を与えられることになる。
1592年 文禄の役に出兵。
1593年 次男:久保が病死してしまう。
1597年 慶長の役に出兵。
1598年 泗川の戦いにて明の軍に大勝。
1600年 関ヶ原の戦いで西軍に参加。
1602年 徳川家康と和解。
1607年 隠居する。
1611年 兄:義久が死亡。
1619年 加治木にて死亡。
生 涯
島津義弘は1535年に、薩摩(鹿児島県)の大名:島津貴久の4兄弟の次男として生まれました。兄に義久、弟に歳久・家久がおり、いずれも優れた人物でありました。
1554年、大隅(鹿児島県)の岩剣城攻めにて初陣を飾った義弘は、岩剣城の城主となり、更に日向(宮崎県)の伊東氏を相手に戦うようになります。
1572年、伊藤義祐との木崎原の戦いが起こると、義弘はなんと300人の兵で、10倍の兵力をもつ敵軍を「釣り野伏せ」という戦法を用いて撃破します。大敗した伊藤氏は、豊後(大分県)の有力者:大友宗麟を頼ります。
1578年、義弘は宗麟との耳川の戦いでも活躍し、兄:義久は、「島津の繁栄は義弘1人の努力によるものよ。」と賞賛されるほどでした。日向の攻略が完了すると、次は肥後(熊本県)に転戦し武功をあげていきます。
九州統一が見えてきた1587年、豊臣秀吉の大軍が九州に攻め寄せます。義弘は、秀吉の弟の秀長との根白坂の戦いで奮戦するも敗北。島津氏は降伏し、支配した領土の大半を奪われ、大隅一国と日向の一部が義弘に残されることになりました。
以後、豊臣の臣下となった義弘は1592年からの朝鮮出兵でも活躍し、途中で自身の次男を病気で失いますが、1598年には明の大軍を撃破し、島津の勇名を海外まで轟かせました。
1600年、関ヶ原の戦いのために石田三成が西軍を結成すると、義弘は寡兵ながら西軍へ味方します。しかし、三成は開戦前の軍議において、少ない兵で駆けつけてくれた島津を軽視する発言をしてしまい、いざ開戦となっても義弘率いる島津はいっさい動きませんでした。
正午すぎ、小早川秀秋が東軍に寝返ったことで、西軍は総崩れとなって敗北が決定し、義弘の陣にも大勢の敵軍が迫ってきました。ここにきて、はじめて義弘は兵たちに命令を下します。それはなんと東軍総大将:家康の本陣をかすめながら敵中を突破すべしというものでした。「捨て奸(すてがまり)」といわれる捨て身の戦法を繰り出し、徳川軍の本多忠勝・井伊直政の武勇優れる2人の猛追撃を振り切って本国へと帰還します。これが後に「島津の退き口」といわれ語り継がれていくのです。
敗北した西軍の中で、堂々敵中突破を成し遂げた島津の行動は敵味方両方から賞賛されました。三成から軽視されたことを見事に島津の武勇をもって見返してやったというところでしょうか。
「関ヶ原の戦い」の後、島津家は粘り強く徳川側と交渉を重ねた結果、追撃した井伊直政が取り持つ形で「お咎めなし」となったのです。義弘とそれに命を懸けた部下達の撤退劇「島津の退き口」が徳川側の心を動かしたのはいうまでもありません。
義弘は、その後隠居して後世の育成に力を注ぐと、1619年に85歳で亡くなりました。生涯52回もの戦場に自ら陣頭に立った猛将は、その華々しい戦果とともに天へと召されたのです。
島津家とは?
島津家は、京都の公家近衛家に仕えた惟宗氏の出身といわれております。初代:忠久が薩摩・大隅・日向にまたがる島津荘を任されたことから、島津を名乗ったとされます。忠久は1197年に薩摩と大隅の守護を任され、のちに日向の守護にもなります。3代:久経のときには、中国に備えて九州に移住します。5代:貞久は1333年、足利尊氏に味方して鎌倉幕府の打倒に寄与しました。
14代:勝久は、実験を握る分家に対抗して、別の分家の忠良を頼り1562年に15代当主の座を忠良の子である貴久に継がせました。貴久と分家との内部政権争いは結論的には貴久が勝利しました。
貴久の子:義久のときに薩摩・大隅・日向を再統一し、九州全土統一まで後一歩でしたが、豊臣家に敗れてしまいました。
関ヶ原の戦い後は、徳川家との交渉で領土は安堵され、1602年には鹿児島城を築城すると、そこを本拠としました。
島津家は江戸時代も生き抜いて幕末のとき、島津家は江戸幕府を倒して明治維新の立役者として活躍することになります。
エピソード
・島津の得意戦法「釣り野伏」とは、味方を3軍に分け、その中の2部隊を道の左右に伏せておき、機をとらえて中央・左・右3方面から敵軍を囲んで殲滅するという作戦です。
具体的には、まずは敵軍に中央部隊が突撃、しばらく戦って敗走を装って後退します(ここまでが釣り)。左・右の伏せている部隊のところまで誘い出したら、左・右の部隊が姿を現し敵を包囲(これが野伏せ)し中央部隊も反転すると敵の包囲が完成、動揺した敵軍を完膚なきまでに叩き潰す戦法です。簡単に書きましたが、成功のためには練度・士気の高い兵士達と、戦局を的確に捉える指揮官がうまくかみ合わないと成功しません。島津軍はこれが得意戦法だったわけですから、余程統率のとれた軍をもっていたわけですね。
・義弘が関ヶ原で使用した「捨て奸」という戦法は、”味方の総大将の首級を絶対に相手に渡してはならない”という島津の教えを体現するもので、撤退戦において敵軍の追撃を防ぐため、足止めの兵士を次々と繰り出して総大将が撤退する時間を兵士の命を散らしてかせぐ方法です。これも、兵士達の優れた勇気と指揮官の判断力が必要となります。
・豊臣軍に勝ち目がないことを悟った義弘は、頭を丸めて「龍伯」と名乗って出家し、これ以上戦意がないことを示したとされます。
・家臣を大切にしており、部下からの信頼も高かったといわれています。
・愛馬は「膝突栗毛」といわれる馬で、戦場で膝をついて義弘の命を救ったとされています。
・妻や子供、兄弟といった家族も大切にしていたと伝わります。
私 見
天下にその武勇を轟かせ「鬼島津」の異名をとる義弘は、まさに武士の生き様を体現することにその生涯をかけていたように思います。数多くの戦に赴いて敵を撃破する姿はとても雄雄しいものだったでしょうね。
義弘の長所は、
・自ら先頭に立って戦場に立ち、統率力や判断力も高いこと。
・島津の名に誇りを持ち、戦場にて生き様を体現していること。
短所は、
・戦法が多くの味方の命を散らせて勝ちを得るものであること。
・当主の判断に背き独断で行動を決めてしまうときもあること。
こんなところでしょうか。短所も、結果としては島津家を存続させる要因にはなったわけですから、これも無理やり出したかんじです。家族・家臣を大事にする義弘だからこそ、その高い武勇とあいまって後世まで慕われる武将となったのでしょう!近くのものこそ大事にする。現代においても大切なことですね。
いかがだったでしょうか。皆さんの人生に役立つことはありましたか?
この記事を読んでいただいた方に幸福が訪れますように!!