天才軍師!諸葛亮孔明とは!?

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さて、今回は三国志に登場する蜀の天才軍師、諸葛亮についてご紹介いたします!その生涯を一緒に学んで、自分を高める材料にしていきましょう!!

諸葛亮:三国志シリーズより

「我が策、容易に破られるものではありませんよ。」

英雄名

諸葛亮(しょかつりょう) 字:孔明(こうめい)

生 涯

中国の三国時代、書生から蜀(しょく)の国の丞相(じょうしょう)にまで登りつめた人物であり、字(あざな)を孔明(こうめい)といいます。

琅邪(ろうや)陽都(山東省沂水(きすい)県)の人で、早くに父:諸葛珪を失うと、兄:諸葛瑾(きん)は呉(ご)の国に、諸葛亮は荊州(けいしゅう)に赴きました。襄陽(じょうよう)の西側(隆中)に住み、晴耕雨読の日々を過ごしながら、世に出る機会をうかがっていました。

そんな時、劉表(りゅうひょう)を頼って荊州にきていた劉備(りゅうび)から、三顧(さんこ)の礼をもって迎えられ、劉備に天下三分の計を説き、その信頼を得る事に成功、その親密な様子は、君臣水魚の交わりと称されることとなります。

魏の曹操(そうそう)が南下して荊州に侵攻すると、自ら呉の孫権のもとに赴いて劉備と同盟してこれにあたることを説き、その弁舌をもって赤壁(せきへき)の戦いが行われることとなりました。

赤壁で勝利すると勢いに乗って、いよいよ天下三分を実行するべく益州に出兵することを主君:劉備に進言、ついに益州の劉璋(りゅうしょう)を攻めて益州領有に成功しましたが、荊州の地は結局呉に奪われることになりました。

劉備が蜀を建国すると丞相に任ぜられ、人心の宥和(ゆうわ)と内政を一新する任にあたりました。その後、劉備が関羽を失ったことに憤って弔い合戦を起こして敗北、病に伏せると、その死に臨んで跡継ぎである劉禅(りゅうぜん)の補佐を諸葛亮に託しています。

劉備が死亡すると諸葛亮は、荊州占領以来、国交の絶えていた呉との同盟を復活させ、また自ら軍を率いて南中(雲南)の平定にあたり、後顧の憂を絶ったあと、227年「出師(すいし)表」を上奏して魏(ぎ)との戦いのために北上しました。「臣亮が言う。先帝業を創(はじ)めいまだ半(なか)ばならざるに崩殂(ほうそ)したまえり(=陛下の家臣である私、諸葛亮が申し上げます。 先の帝(劉備)は、この国の基礎を作り始められてから、その事業の半分も行えないままに完成の途中でお隠れになって(亡くなって)・・」から始まるこの出師表は後世に、「読んで泣かない者は忠臣とはよべない」とまで評される名文でありました。

第一次の戦いは、愛弟子である馬謖(ばしょく)の敗北で失敗し、諸葛亮は断腸の思いで馬謖を斬りました。その後、数次にわたる北伐を行うもついに成功することはなく、234年、五丈原(ごじょうげん)で宿敵:司馬懿(しばい)との対陣中に病没してしまいました。その墓は定軍山にあり、成都に武侯祠堂(しどう)があります。

諸葛亮:三国志シリーズより

エピソード

・書生時代、自身を中国春秋時代の斉国の名宰相:管仲や中国戦国時代の燕国の武将:楽毅にたとえていたが、周りの人間は徐庶等の親友達を除いて誰も信じる者がいませんでした。後に、現代まで語られる名軍師となります。言霊の力ってすごい!

・劉備は当時右将軍という比較的高い身分でありながら、無名の書生であった諸葛亮を傘下に加えるため、3度訪問して説得しています。これが世にいう「三顧の礼」であります。

・諸葛亮が劉備軍に迎えられた当初、劉備の義兄弟である関羽や張飛は、諸葛亮の実力に疑問を持ち信用していませんでした。しかし、博望波で曹操軍と戦ったときにその知略に感服、それ以降は信用を置き、劉備ファミリーとして迎えたという逸話もあります。

・劉備が病に伏せっている際、諸葛亮に対して「君の才能は素晴らしいものがある。息子の劉禅が君主の器でないときは、君が代わりに蜀を治めてくれ。」と後事を頼まれましたが、あくまで諸葛亮は劉禅の補佐役となることを誓ったといわれております。

・妻は、黄月英という女性で、その容姿は色が黒くて醜いが、才知に溢れる人物であるといわれています。(↓ゲームではめっちゃ美人!)

黄月英:三国志シリーズより

私 見

諸葛亮は、三国志演義では後半の主人公ともいえるべき人物で、妖術や計略を使いこなす、日本で言えば、陰陽師の安部清明のように書かれています。

実際は、計略や天文学といった学問を広く吸収する勉強家で、軍略よりも政治面において極めて優れた能力をもっている人物であると思います。

諸葛亮の長所は、

・学問に明るく長い間、蜀という国の主軸となって働き続けた。
・相手の実力を冷静に分析し、負けない戦を展開している。

短所は、

・人を育成することに関しては、少々穴がある。
・慎重な性格のあまり、大胆な作戦を渋る傾向にある。

こんなまとめになるでしょうか。
名軍師であり、蜀という国に欠かせない人物であったことは事実ではありますが、人物の育成や軍略に強い配下をもっと使いこなすことができれば、更に劉備の理想に近づいたのではないかと感じております。

いかがだったでしょうか。皆さんの人生にプラスになることはありましたか?

この記事を読んでいただいた方に幸福が訪れますように!!







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