皆さん、こんにちは!こんばんは!うまぽよです!
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さて、今回は勝利へのチャンスを見逃さない魏の参謀をご紹介いたします!その生涯を一緒に学んで、人生のヒントを発見していきましょう!
「どれほど強大な相手にも、突かれたくない部分は必ずあるものですよ。」
英雄名
賈詡(かく) 字:文和(ぶんわ)
生 涯
147年、中国西部:涼州に生を受けた賈詡。
はじめ、今でいう就職試験に合格して宮中を守護する職に就きます。しかし、自身の病気のために辞職することになりました。その帰り道の途中で、運悪く漢(かん)の支配に従わない賊徒の集団に遭遇してしまい、同行者ともども捕らえられてしまいます(・・・どこの世紀末だ)。そして同行者数十人は全て殺されてしまいます(だからどこの世k・・以下略)が、賈詡は瞬間的に、その当時メチャ強すぎて恐れられていた大豪傑の親族だと偽ると、「私を殺した後に、手厚く葬ってくれたのならば、我が親族が必ず遺体を手厚く引き取りに来ることでしょうね」と遠回しに脅迫を行いました。それを聞いてビビってしまった賊徒たちは、賈詡を解放しました(北斗の拳でいえば、ヒャッハー達に捕まって殺されそうになったときに、自分はラオウの親戚で殺したら、あんたらヤバイよー!って脅したところ、ヒャッハー達が逃げてったみたいなイメージ)。この知略と機転・・・やばすぎる。。
暴虐の徒:董卓が力をつけ始めると、賈詡は董卓に仕え、その軍に加えられました。しばらくして、董卓が呂布らに殺されると、同じ軍にいた武将らに策を授けて、董卓なき都:長安を攻めさせて呂布を追い出し、その呂布に協力していた者まで殺して長安を奪回させました。
この功績により、偉い役職に就くことを勧められますが、賈詡はそれを辞退し、人事面を担当する役職になることで人々を助けていました。周囲の者たちは、賈詡のそうした態度を親しみながらも恐れたといわれています。また、武将らが仲間割れを始めようとする度に、賈詡がこれを止めていましたが、賈詡が母の喪によって去ると、李傕らが争いを始め、長安が破壊されてしまいました。人の間に入って関係を潤滑にさせる能力にも長けていたということですね。
後に、帝が長安を脱出したことで、賈詡は役職を返上して、同郡の者の力になろうとしました。しかし、その相手が賈詡に実権を奪われることを懸念している心中を察すると、南陽郡の張繍(しょうしゅう)の招きに応じて、彼に仕えることにしました。以後、彼の懐刀として活躍していきます。
197年、張繍は曹操に攻め込まれると降伏しました。しかし、曹操が張繍の義理のおばを妾にし、更に張繍をも暗殺しようとしたことから、張繍は反乱を決意します。賈詡は計略に用いて、曹操軍を奇襲するとこれを撃破、曹操の息子と親衛隊長を戦死させることに成功しました。
199年、曹操と袁紹が官渡の地で対峙すると、袁紹は張繍を味方に引き入れようとしました。張繍は袁紹につく気でいましたが、賈詡は曹操に降るよう進言します。張繍が「今は袁紹の方が曹操より強大であり、その上曹操とは仇敵の間柄ではないか」と、それは真っ当な意見を述べると、賈詡は「曹操は天子(帝)を保護しており、弱小である曹操だからこそ、この一大決戦に味方になってくれる勢力のことを邪険に扱うことはないでしょう。さらに、天下を狙う曹操ならば、個人的な感情を水に流すことで、自分の徳を世に知らしめようとするに違いありません。」と理由を述べて反論します。張繍は賈詡の意見に納得して曹操に降伏すると、賈詡の言うとおり、曹操は彼らを厚くもてなしました。曹操は賈詡の知略を大変気に入り、参謀役として用いることとしました。
200年、袁紹軍の武将が降伏してきて、袁紹軍の兵糧輸送隊の守備が手薄なことを暴露して、そこに奇襲をかけるよう進言してきました。曹操の側近たちの多くがその発言を疑いましたが、賈詡はこの武将の進言を支持しました。曹操は賈詡の意見を採用し、自ら歩騎5000人を率いて奇襲を見事に成功させ、袁紹軍に勝利を収めることができました。
211年、曹操が、涼州の雄:馬超・韓遂の連合軍と戦った時には、賈詡は曹操に離間の計(対象者の仲を裂くことによって、敵を内部から破壊させる計略)を進言して、馬超と韓遂を仲違いさせることに成功、彼らを撃破しました。
また、曹操の後継者選びにあたって、家臣の間では嫡子である曹丕(そうひ)派と、優れた文才をみせる曹植(そうしょく)派とに分かれ、論争が起きていました。曹操から意見を問われると賈詡は即答せずに、「袁紹と劉表のことを考えておりました」とだけ答えます。それは、袁紹・劉表はともに大勢力でしたが、長子以外を後継者に指名したことで国の分裂等を招き、その結果、曹操に滅ぼされたことを暗示していました。その助言を聞いた曹操は、なるほどと大笑いすると、嫡子の曹丕を後継者としました。
220年、曹操の後を継いで曹丕が魏王となると、賈詡に感謝し最高位の役職:太尉に任命しました。
その信頼度たるや凄まじく、221年に当時不吉とされていた日食が発生し、所轄の役人が太尉であった賈詡を免職するよう上奏したときに曹丕は、「天変地異を理由に弾劾してはならない」として、その上奏を却下しています。。
223年、77歳で病死するまで、賈詡は魏の臣として活躍しました。
エピソード
・若い頃は評価されることがほとんどなかったが、優れた人物眼をもつ士:閻忠(えんちゅう)からは、「前漢の有名な軍師:張良・陳平のような、優れた智謀の持ち主である」と高く評価されてました。
・曹操軍に加わった後、賈詡は自らが古参の臣ではないのに策謀に長けていることから、周囲に疑われることを恐れて、私的な交際をしなかったと伝わります。
・赤壁の戦い(孫権・劉備連合軍に曹操軍が大敗する戦)の直前、曹操に対して、「まず占領したばかりの荊州を安定させて足場を固め、孫権に対して万全の体制を敷いてから、降伏を勧めるべきです」と献策しています。さらに、曹丕から蜀・呉に向けての戦略を問われた時も、急いで侵攻することの愚策を説いています。しかし、曹操・曹丕はいずれも賈詡の献策に従わず兵を進めた結果、勝利を収めることができませんでした。
・賈詡は「三国志」に注釈をつけた歴史家:裴松之(はいしょうし)にメッチャ嫌われています。具体的には、暴虐の徒:董卓が暗殺され、呂布を長安から追い出したことに対して、「悪の権化が死亡して平和になろうとしていたところ、都に更なる混乱を招きいれた」とし、又、「賈詡を荀彧らと一緒の列伝に入れるのはおかしい」といった具合です。・・・そんなに言わなくても。。。
私 見
自身が窮地にあっても、その場の雰囲気を素早くつかみ取って、的確な策略を次々と頭に思い描いていける、そんな名参謀であったと考えます。主を次々と変え、変わるたびに勝利を献上していく。味方としては頼りになりますが、底知れぬ知識を持つ者はどうしても警戒されやすくなってしまうのかもしれませんね。
賈詡の長所は、
・自分の死が目の前にある状況にあっても、チャンスを見逃すことがないこと。
・他者を自在に動かすのも、人の間に自ら入って調整役になることもできる器用さを持っていること。
短所は、
・時世の流れを感じ取る反面、次々主君を変えていること。
・考え出す計略が敵を内部から破壊する等なかなかエグいものも多いこと。
最終的には、曹操という英雄に自身の素晴らしい知略を発揮することができて良かったのではないかと感じます。悪党について、その恐ろしい知略を使い続けられていたとすると・・・ぞっとしますね。
全体的に北斗の拳を多く取り入れたような文章になってしまいました。。。
さて、こんなところでしょうか。皆さんの人生に役立つことはありましたか?
この記事を読んでいただいた方に幸福が訪れますように!!