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さて、今回は類まれなる管理職スキルを持つ勇将をご紹介いたします!その生涯を一緒に学んで、人生のヒントを見つけていきましょう!
蒲生氏郷:コーエーテクモゲームス
「大将自ら動かねば、部下の信頼は得られぬのだ」
英雄名
蒲生氏郷(がもう うじさと)
生 涯(1556~1595年)
知勇兼備の勇将として知られている蒲生氏郷は1556年、近江(現在の滋賀県)に生を受けました。蒲生家は、奥州藤原氏の血統をもつ名門であり、はじめは六角家に仕えていました。
13歳の時、主家であった六角家が織田信長に滅ぼされると、蒲生家は氏郷を人質に出すことで信長に臣従しました。信長が氏郷と面会した際「この若者の眼の輝きは、凡人にはないものを感じる。わしの婿にしよう」と言い、自分の次女を娶らせる約束をしました(いやいや、どんだけ他と違うオーラ出してたんだよ(´゚д゚`))。
その人物眼に違わず、氏郷は儒教や仏教、武芸を熱心に学び続け、立派な青年となりました。元服の儀式も、信長自らが執り行ったといいます。
以降は、織田家の猛将:柴田勝家の配下となって、「姉川の戦い」や「小谷城の戦い」、長嶋一向一揆征伐、「長篠の戦い」等の戦いで大いに活躍しました。
しかし、ここで運命の分かれ道が発生します。主君であり、目を掛けてくれていた織田信長が「本能寺の変」にて自刃してしまうのです。これを聞いた氏郷は、機転を利かせて安土城にいた信長の妻子を救出し、謀反人である明智光秀を迎え撃つ姿勢を整えました。
その後、豊臣秀吉の配下となって明智光秀を討伐(この頃に、蒲生家の家督を継ぐ)。更に「小牧・長久手の戦い」や「九州征伐」といった数々の戦に従軍して武功を上げていきました。また、キリスト教の洗礼を受けて”レオン”という霊名を頂いたとされています。
秀吉の全国統一事業に多大な貢献をしたことが認められ、1590年に陸奥国(現在の東北地方)会津に42万石(後に91万石にまでなる)の領地を与えられることとなりました。氏郷は、内政面でも優れており、楽市楽座の導入・定期市の開催・手工業の奨励等を打ち出して、後世に活きる政策を行いました。
順調に見えた氏郷でしたが、1592年の朝鮮攻め「文禄の役」の陣中にて病を患ってしまいます。医者を着けるも回復せず、40代という若さでこの世を去ってしまうのでした。
エピソード
・氏郷は数多くの戦場に出ましたが、常に自らが先頭に立つことで家臣らに手本を示していきました。新たな部下が加わると「銀の兜を身に着けた者を見つけたら、それに劣らない活躍を心掛けるように!」と教え、新参者がいざ戦場でその者を見つけると、氏郷本人であったそうです(あっ、いた!・・・って、御館様!?( ゚Д゚)みたいな感じ?w)
・軍規には大変厳しかった半面、情にも厚い人物であり、軍規を破ってさきがけ下部下に対して、粛正するのではなく淡々と理を説いたといわれています。しかし、陣中での博打は許可しており、その理由としては「夜勤は何もしないと眠くなるが、博打をすると気力が高まる」とのこと。
・奥州の独眼竜:伊達政宗とはあまり仲はよろしくなかったようで、氏郷が陸奥国の支配者となったのも、伊達家を抑え込む意味合いもあったとされています。
・茶の湯に関しては特に強い思い入れがあり、離宮からもらった茶器に加えて自身で作成した茶器を所持していました。また、怪談話や武辺談義も好んでいたとされています。
・キリスト教宣教師からも「寛大であり、合戦においても幸運と勇気を併せ持つ傑物」とまで言わしめています。
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私 見
信長にその素質を見出され、それに応える気概と能力を有している氏郷は、上司にしても部下にしても頼りになる存在であったことは確かでしょうね。特に、大将自ら先頭に立って戦を指揮する姿は、当時の部下を惹きつけていたことと想像します!
氏郷の長所は、
・自らが先頭に立って困難に立ち向かうこと
・時世をよく読み、自分にできることをしっかりとこなしていること
短所は、
・短命であったこと
・子孫も早逝してしまったこと
こんなところでしょうか。短所の部分は、自分ではどうしようもない部分であるので実質的にはないといってもいいかもしれませんね!しかし、若くして亡くなってしまったのが本当に悔やまれる武将です。氏郷の気概と努力は見習っていきたいものですね。
さて、いかがだったでしょうか。皆さんの役に立つことはありましたか?
この記事を読んだ方々に幸福が訪れますように!!
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