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さて、今回は商人から大名に成りあがった稀有な戦国武将をご紹介いたします!その生涯を一緒に学んで、人生のヒントを見つけていきましょう!
斎藤道三:コーエーテクモゲームス
「銭を取るも、国を盗るも同じことよ。」
英雄名
斎藤道三(さいとう どうさん)
年 表
まずは、年表で概要をパパっとみていきましょう!!
1494年 山城(現在の京都府)に生まれる。
1504年 出家後、数年で武士に戻り、やがて商人となる。
1520年代 美濃(現在の岐阜県)に移動する。
1527年 土岐政頼を追い出し、頼芸を当主とする。
1530年 長井家を乗っとる。
1538年 斎藤家を乗っとる。
1540年 土岐頼芸(よりなり)と敵対する。
1541年 土岐頼芸の弟を毒殺。
1542年 土岐頼芸を美濃より追い出し、大名となる。
1547年 稲葉山城で織田軍を迎撃して、大勝利を収める。
1548年 娘を織田信長に嫁がせ、自身は道三と名乗る。
1549年 尾張(現在の愛知県)の聖徳寺にて信長と対面する。
1552年 美濃を平定する。
1554年 隠居する。
1556年 長良川の戦いにて戦死する。
生 涯
斎藤道三は、1494年(近年では1504年とも)に、山城(京都府)の松波家に生を受けました。11歳の時に出家しましたが、数年すると松波庄五郎と名乗るようになります。そして、油問屋の娘と結婚して、油を売る商人となりますが、これが大成功をおさめます。一文銭の穴を通して油壷に入れ、もし油が穴から外れたら料金は貰わないというユニークなパフォーマンス商法が噂となったのです。道三は何事も器用にこなすことができる上に、頭の回転も速かったので、もしも国盗りという野心を持たずに商売人として人生を送っていれば、戦国の大商人として記録されていたことでしょう。
しかし、時は乱世かつ下克上の時代。それは道三に野望を抱かせました。1520年代、修業僧時代の知人の紹介で、美濃(岐阜県)の有力者である長井家に入り込んだ道三は、持ち前の才覚をもって信頼を確かなものにしていき、美濃守護の弟である土岐頼芸の側室を妻にもらうまでの立場になりました(ちなみに当時の名前は西村勘九郎)。更に頼芸に助言して、頼芸の兄を倒して守護の座に押し上げてることに成功。家中における存在感を強めていきました。頼芸にとってみても、道三という知恵者が側にいる限り、美濃の支配は揺るがないという思惑があったことでしょう。
その信頼に応え、道三は頼芸を支え続け・・・・ることはありませんでした(ですよね~( ;∀;))!マムシの異名は伊達ではなく、道三は着実に謀略という名の”猛毒”をため込んでいたのでした。かつて道三が仕官した主:長井長弘も頼芸から信頼の厚い人物でしたが、道三はこれを謀殺。長井家の姓を継いで、長井新九郎規秀(ながいしんくろうのりひで)となって土岐家随一の家臣という立場を不動のものにしました。更に、美濃守護代である斎藤家跡目引継ぎに割り込んで、斎藤家をも手中に収めます(そして斎藤新九郎利政に改名)。斎藤姓を得た道三は、居城である稲葉山城を改築すると、本格的に美濃大名である土岐家乗っ取りに動き出しました。
頼芸は自身の弟が道三によって毒殺されたことで、ようやく彼が危険人物であることに気づき、抗争となりました。しかし、巧みに謀略を張り巡らしていた道三に勝てるわけもなく、1542年に追い出され、美濃の支配を道三に明け渡すこととなりました。
美濃の支配者となった道三でしたが、頼芸は尾張(愛知県)の織田家を頼って、度々美濃奪還のため戦をけしかけてきました。この状況を解決するために、自分の娘である帰蝶を魔王:織田信長に嫁がせて織田家との和睦を進めました。これに成功し、反乱分子を駆逐した道三の美濃支配は完全なものとなるのでした。
その後、道三は髪を剃って隠居。ここではじめて「斎藤道三」を名乗ります(何回名前変えんねん!書くこっちは大変なn・・・何でもないです( 一一))。後継を嫡男である義龍に譲りましたが、これも本当に隠居するわけではなく、道三の強引なやり方に不満を持った家中を鎮めるために行った策略の一つでありました。
事実、道三と嫡男である義龍の仲は良いものではなく、道三は義龍の弟たちを偏愛して、一度譲った家督を排除して、弟に与えることを考えていました。これを知った義龍は不安にかられます。
相手は、自分の野望成就のためならば手段を選ばない戦国屈指の梟雄。実の子であっても疎まれればどうなるか分からない・・・ならば、いっそのこと自分が父:道三を討つ。義龍は考えた末、弟たちを殺害して決起することとなりました。
嫡男:義龍謀反・・・それを聞いた道三でしたが、頼芸を追放したことで家臣たちの信頼を得ることができず、戦に十分な兵力を集めることはできませんでした。結果、娘婿である信長の援軍も間に合わず、道三は嫡男に敗れて戦死してしまいました。享年63歳。美濃平定から、わずか4年後のことでありました。
エピソード
・美濃攻略に成功した道三に対して近隣の武将たちは、仕えた主人を次々と倒して成り上がる姿から「美濃のマムシ」と呼ぶようになったといわれております。
・正室は、明智光秀の叔母である小見の方であったといわれています。
・大名への成り上がりは、道三の一代によるものと思われていますが、近年の研究では、道三と彼の父親の二代に渡る野望であったとの見解が支持されています。
斉藤家とは?
斉藤家は、美濃(岐阜県)の大名である土岐家の家来でありました。しかし、応仁の乱直後には権力を握り、その後も土岐家と権力争いを演じました。
戦国時代となり、京都から流れてきた道三が斎藤家を乗っとって当主となります。道三は、その才能を活かして土岐家に取り入りながら、裏では爪を研ぎまくり、1539年には稲葉山城に入りました。1542年になると、ついに土岐家を追い出して、美濃を支配することとなりました。
1554年、道三は隠居して長男:義龍に当主の座を譲りましたが、この親子は仲が悪く、1556年に長良川の戦いが勃発。血で血を洗う戦いになってしまいます。道三は死に追い込まれ、義龍は美濃支配を強化して織田信長の攻撃を防ぎますが、1561年に病死してしまいます。
その子:龍興が家督を継ぎますが、勢力は徐々に弱まっていき、1567年には織田信長に主城である稲葉山城を奪われ、龍興は越前(福井県)の朝倉家へと亡命します。
しかし、その朝倉家も1573年に信長によって滅ぼされ、龍興も運命をともにして、ここに斎藤家滅亡してしまうのでした。
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私 見
僧侶~商人~武将~大名と異例の経緯を持つ道三。自分の野望のために、立場を変え、名前を変え、ありとあらゆる手段を講じるその姿は、何度も脱皮を繰り返し、体内に毒をもつマムシ!と呼ばざるを得ないでしょう。
道三の長所は、
・器用で頭もよく、アピール力も高いこと。
・外交の手腕が高いこと。
短所は、
・嫡男に対して、愛情を注ぐことができなかったこと。
・目的達成のために手段を選ばないこと。
こんなところでしょうか。戦国武将として優れた能力を持ってたことは確かな道三ではありましたが、謀略をつくして国を盗った結果、嫡男によって命を取られるという下克上の象徴のような散り方をしてしまった人生でありました。「金持ちになりたい!」「国をコントロールしたい!」そのためならば手段を選ばない。自分さえよければいい。・・・それで本当にいいのでしょうか。彼の短所から現代の私たちも学ぶことが多いような・・・そんな気持ちにさせられる武将です。
さて、いかがだったでしょうか。皆さんの人生に役立つことはありましたか?
この記事を読んでいただいた方に幸福が訪れますように!!
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