皆さん、こんにちは!こんばんは!うまぽよです🐴✨
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さて、今年一発目の紹介武将は、豊臣秀吉に仕えた猛将をご紹介いたします!その生涯を一緒に学んで、人生のヒントを見つけていきましょう!
福島正則:コーエーテクモゲームス
「俺の武、全て秀吉様のために!!」
英雄名
福島正則(ふくしま まさのり)
生 涯(1561~1624年)
秀吉子飼いの将であり、槍の名手として名高い福島正則は1561年に尾張の国(現在の愛知県)に生まれました。秀吉とは従兄弟の関係にあり、その縁もあって小さいときから秀吉に仕えることになりました。
この頃の秀吉は、織田家臣団の中でも頭角を現した時期であり、若い正則も重要な戦場に次々と参戦。優れた武勇を発揮して、着実に戦功を挙げていきました。特に、秀吉と柴田勝家が織田家の後継者をめぐって争った「賤ヶ岳(しずがたけ)の戦い」では、一番槍に一番首という白眉な活躍を見せました。この戦いで活躍した7人の武将を「賤ヶ岳の七本槍」といい、正則はその筆頭として数えられることとなりました。
その後も四国や九州、小田原征伐、そして朝鮮出兵に至るまで、主である秀吉のために各地を転戦していきました。豊臣政権の繫栄は、正則たち忠臣たちの活躍の歴史でもあったわけです。
そんな正則には、どうしても性格の合わない武将がいました。豊臣政権で五奉行に数えられた石田三成です。ともに秀吉の家臣として、若いときから育った間柄ではあったものの武をもって正義とする正則と、智将である三成は度々ぶつかり合っていました。
秀吉が天下統一後に亡くなり、仕えるべき存在がいなくなると、二人の確執は決定的となり、三成を屋敷を正則が加藤清正らとともに襲撃する事件を起こすまでになってしまいます。更に、三成失脚を狙う徳川家康に接近して、「関ケ原の戦い」が起こった際には家康率いる東軍に味方することを宣言。東軍の先鋒として自身の武勇を見せつけて、三成率いる西軍を壊滅させることに成功しました。
三成を戦で降すことに成功した正則でしたが、それは徳川家につくことであり、あれだけ支えた豊臣家の敵となることを決定づけてしまうのでした。
事実上、新たな天下人となった家康は、次第に豊臣家から全てを奪うべく動くようになっていきます。すでに家康の家臣となっていた正則でしたが、豊臣家が完全に亡くなる状況は辛く感じており、自分が豊臣と徳川の仲介役となって、豊臣家存続だけは実現させたいと考えていました。
秀吉の後継者である豊臣秀頼が病に伏せたと聞けば見舞いに行き、家康と秀頼の会見を成立させる等尽力しました。昔から自身の武力によって周囲を屈服させてきた正則も、さすがにこの時は両家の緊張を緩和すべく慎重に動いていました。
しかし、こうした正則の態度を家康は危険視し始めます。いつ反旗を翻してくるかわからない危険分子とみなされ、飼い殺し状態にされてしまいます。徳川家と豊臣家最後の戦である「大阪の陣」では何度も調停を試みるも認められず、出陣することさえ許されないまま、遠い江戸で豊臣家滅亡の報を聞かざるをえませんでした。
そして豊臣家が滅亡した後も、正則の不遇は続きます。徳川秀忠の時代に入ったとき、居城を無断で修理したことが法律違反だと問われました。正則としては、事前に届出は出しており、雨漏りした部分を少し直しただけの些細なことでしたが、弁明は聞き入れられず、左遷と所領を減らされるという厳しい処分を受けることになりました。
これは、徳川家が未だに正則を豊臣家に忠義を尽くす存在として見ていることであり、その武勇が徳川に向かうこともまた恐れていることでもありました。
そうして半ば言いがかりに近い形で左遷された正則は、1624年に65歳で亡くなりました。正則死後の福島家も没落の一途を辿りましたが、いくら冷遇されても黙々と幕府の命令に従った正則のように、その子孫もまた徳川に弓引くことはなかったといわれています。
エピソード
・世間的には、武の道一筋の将として知られていますが、全盛期は知行も増加される等、政治面でも全くできないというわけではなかったことが分かっています。
・酒癖が非常に悪く、酔いに任せて部下に切腹を命じたり、飲み敗けて名槍「日本号」を奪われる等、酒での失敗エピソードには事欠かない人物でありました。
・恐妻家であったとされ、戦場では敵に背中を見せることがなかった正則が、妻の怒りに触れた際には一目散に逃げたとも伝わります。
・千利休に対して「あの人を見ていると得体のしれない雰囲気に臆してしまう」と、畏敬の念を抱いていたとされます。
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私 見
忠義を尽くした相手によって、厚遇と冷遇どちらも経験した福島正則。酒癖が悪く、器用に生きられる性格ではなかった武将ながら、どんな状況に置かれてもそこまでも真っすぐに、自分に素直な生き様はとても好感が持てます。
正則の長所は、
・武勇に優れ、目標達成に向けて努力できること。
・どんな状況においても、自分という芯を曲げることがないこと。
短所は、
・場面を見極めて、器用に立ち回れないこと。
・大局よりも、私情を優先させてしまうこと。
こんなところでしょうか。かつて秀吉の天下統一に尽力し、また家康の天下の為にも奮った正則の武は、泰平の世の中においては不要な存在となってしまったかもしれませんが、徳川の政治という力に従い、あえて武力によって反旗を翻すことをしなかったのは、正則最後の「武士の意地」だったのかもしれませんね!
さて、いかがだったでしょうか。皆さんの人生に役立つことはありましたか?
この記事を読んだ方に幸福が訪れますように!!