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さて、今回はあの毛利元就をも傘下にしていた出雲の鬼をご紹介いたします!その生涯を一緒に学んで、人生の糧にしていきましょう!
尼子経久:コーエーテクモゲームス
「名将は、常に悪徳と背中合わせになっているものだ」
英雄名
尼子経久(あまご つねひさ)
生 涯(1458~1541年)
「出雲の鬼」「謀聖」という異名を持つ尼子経久は1458年、出雲(島根県東部)守護代:尼子清定の子として生を受けました。尼子家は先代から守護である京極家を良く助け、数々の武勲をあげている名家でありました。経久自身も若い頃から父の片腕となって戦地に赴き、勇猛果敢に戦うとともに、京での優雅な文化にも触れることで、文武両道の人物として世間に知られるようになりました。
しかし1478年、20歳になって尼子家の家督を継ぐと、上役である守護:京極家からの命令を無視して、納税や私益の一切を拒否し始めました。若く血気盛んな経久からすると、理不尽な命令を拒否したにすぎませんでしたが、幕府の命令に背いたこと、さらには地域内の有力者たちからの反感を買ったことで役職を解かれ、居城を追い出されてしまいます。多くの異名を持った謀将の最初は挫折から始まったのです。
城を追われた経久はしばらく野に隠れていましたが、心は”居城奪還”に燃えていました。放浪生活の中でしたたかに同志を募り、徐々に兵力を蓄えていきました。そして1486年、元旦の祭りに紛れて居城奪還戦を決行。見事に城を奪い取る活躍をみせました。その後も経久は得意とする奇襲作戦を中心に国内を統一し、事実上京極家を追放。1508年には出雲守護職に任命され、下剋上をもって再起を果たしたのでした。
出雲守護という役職を得てもなお経久の勢いは衰えることがなく、当時中国地方に大勢力を誇っていた大内家との抗争をはじめました。経久は単純な力勝負ではなく、前述した奇襲や周辺の有力者を味方に引き込んだり、大内家内の反乱者を支援したりと謀略の限りを尽くして、したたか且つ着実に侵攻していきました。
特に尼子家の傘下にあった毛利元就は、安芸(広島県西部)攻略の際に策略を使って落城に貢献し、大内家と激突した時にも素晴らしい活躍を見せていました。こうした優れた味方の働きもあり、経久はどんどん領土広げていき、ついには中国地方11カ国の太守と呼ばれるに至ったのでした。
しかし、信頼できる味方であるはずだった元就が大内家に就くと情勢はにわかに変化し、尼子家に陰りが見え始めました。元就は当初、安芸の有力者にすぎませんでしたが、その実力は全国の有名武将と比べてもトップに来るくらいのものであり、中国地方の派遣を争う上でキーパーソンとなっていました。さらに1518年には長男:政久が戦死、1532年には三男:塩谷興久(えんやおきひさ)が謀反を起こすという不幸に見舞われてしまいます。敵に対しては無慈悲で残忍、味方の武将も忠誠心が描けると判断するや即斬り捨てる方法で領土を拡大してきましたが、家臣からは寛大な当主として慕われており、尼子家の強さはそうした団結力にあると経久は自負していたことから、身内を欠くという事件は経久自身に大きなショックを与えてしまいました。しかも経久は高齢となり悩んだ結果、80歳の時に家督を孫:晴久に譲ることにしました。
この頃になってもまだ大内家との戦は続いていましたが、経久は病に苦しみ軍議にすらまともに立ち会うことが出来ず、病床で戦況報告を聞くことが多くなっていきました。そして1541年、左折と再起を味わった居城:月山富田城にて84年の生涯に幕を下ろしました。経久の慎重に攻めるべきという助言を無視した孫:晴久が元就軍に大敗した報告を受けて間もなくのことでした。
尼子家とは?
尼子家は、佐々木導誉(ささきどうよ)の孫である高久が、近江(滋賀県)の尼子郷という場所に住んだことが始まりといわれています。高久の子:持久のときに、京極家の出雲(島根県)に守護代として赴きました。
応仁の乱にて京極家の力が弱体化すると、持久の子:清定は月山富田城を本拠地として力を蓄えました。清定の子:経久は1484年に尼子家の強大化をおそれた京極家に追放されますが、独自で城を取り戻しました。
経久は、京極家に代わって出雲をまとめあげると、中国地方各地に兵を進めて11カ国の太守と呼ばれるほど確固たる勢力となりました。
経久の跡を継いだ孫:晴久は引き続き大内家や毛利家と戦い大きな敗北もありましたが、将軍から8カ国守護に任命され全盛期を迎えます。
しかし、晴久が亡くなりその子:義久の代になると毛利家に対抗できなくなり降伏してしまいます。
それでも尼子家復興の戦いは続き、尼子勝久と山中鹿之介らは織田信長の軍に加わりますが、1578年に播磨(兵庫県)で毛利家により滅ぼされてしまいました。
エピソード
・毛利元就・宇喜多直家・尼子経久は、中国の3大謀将と呼ばれ智謀の高さがうかがえます。
・経久本人は非常に倹約家であったといわれています。しかし、家臣に対しては非常に気を遣っており、部下が経久の持ち物を褒めるとそれをすぐに渡すほどであったといわれています。ある時は、経久の家にある松の木を部下が褒めたところ、経久はその木を掘り起こして部下に渡そうとしたため周囲の者が慌てて止めに入りました。しかし、とうとう経久はその木を薪にして部下に与えたといわれています(なんでもあげちゃうおじいちゃん^^)。
私 見
一代で尼子家を中国地方の大勢力に押し上げた経久には、いかほどの苦労があったのかと考えてしまいます。しかし、その代償として子供たちは戦の世に散り、優秀でも若すぎる孫:晴久に家督を譲らなければならなかったことは、経久にとって一番の誤算だったのかもしれません。
経久の長所は、
・挫折から腐らず、着実な準備によって再起を果たしたこと
・部下には優しく寛容であること
短所は、
・敵には容赦ないこと
・家督を譲るのが遅い等、家中のまとまりを確立できなかったこと
こんなところでしょうか。若くして挫折と苦労を味わった経久からは現代の私たちも「不屈の精神」を学ぶことが出来ると思います。あきらめずに野望達成のため、着々と準備していく・・・まさに私に足りない精神です(笑)ただ晩年はいろいろな不幸が重なってしまうのは調べていてつらいところでした。血気盛んに飛び出していく孫:晴久を病床から見送った経久は、果たして若いときの自分を見たのか。それとも後に起きる尼子家滅亡の未来が見えたのか・・・気になるところです。
さて、いかがだったでしょうか。皆さんの人生に役立つことはありましたか?
この記事を読んだ方に幸福が訪れますように!
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