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さて、今回は呉という国の礎を築いた孫家の父ちゃんをご紹介いたします!その生涯を一緒に学んで、人生のヒントを見つけていきましょう!
「江東の猛き者たちよ、この俺に続けぇ!!」
英雄名
孫堅(そんけん)字:文台(ぶんだい)
生 涯(156~192)
孫策や孫権の父親として広く知られている孫堅は156年に中国大陸の南東部:揚州呉郡富春県(現在の浙江省)で生まれ、若いときから高い正義感と優れた武勇を持っていました。
17歳のとき、海賊が悪事を働いていることを耳にした孫堅は自ら高台に立つと、あたかも大軍を指揮して海賊を包囲殲滅するような身振りを行いました。それを見た海賊たちは慌てて退散し、その土地には平和が戻りました(10代にして計略も身につけていたんだね!)。この「海賊退治」によって名声を得た孫堅は、役所の警備担当を任せられることとなります。
184年、新興宗教団体:黄巾党が漢王朝に不満を抱く民たちを先導し、各地で反乱を起こしました(黄巾の乱)。孫権は兵を集めて鎮圧軍に加勢すると、自ら先頭に立って進撃。敵大将を討ち取る大活躍を見せて、名声と地位を更に高めていきました(ここまで、まだ20代・・・まじか)。
190年、暴虐の徒:董卓が都で専横を極めて再び世の中が乱れると、反董卓連合軍に参加しました。先鋒の任を授かった孫堅は、迫りくる敵をなぎ倒して怒涛の進軍を行いました。そして、敵要地への攻撃を前に食料の補給を味方に依頼しますが、一向に届きません。ここに来て、味方の裏切りに気づいた孫堅は怒り心頭。しかし、冷静さは失わず董卓側からの勧誘をきっぱりと断り、飢える猛虎の如く奮闘して、あの呂布をも退ける活躍をしました。
孫堅の勢いに気圧された董卓は財宝を持ち出して都:洛陽を焼き払って逃走しました。破壊された都の修繕を行った際に、孫堅は歴代皇帝のみが持つことを許される特別な印鑑(玉璽)を発見し、ひそかに自分のものにしようとします。しかし、それが味方の大将:袁紹に知られてしまい詰問されます。孫堅は「私が本当に玉璽を持っていることを隠しているならば、安らかに死ぬことはないだろう!」と嘘をついて故郷へと帰るのでした。
ところが、その帰り道に袁紹から連絡を受けた大陸中央部の雄:劉表が待ち構えており襲い掛かってきました。孫堅は応戦するも、先の戦いの疲れもあり惨敗。多くの兵を失いながら帰郷しました。
孫堅が劉表に対して、敗戦の悔しさを晴らす機会を伺っていると袁紹の弟:袁術から劉表と戦うならば援助する旨の知らせが届きます。袁術は董卓との戦の際に、孫堅の元へ食料を送らなかった張本人であり信用できない人物でしたが、怒りが収まらない孫堅はそれを受けて出陣しました。
192年、やはり孫堅の軍はべらぼうに強く、瞬く間に城を一つ落とし、敵武将一人を討ち取りました。勢いに乗る孫堅でしたが、あるとき本陣の旗が風に煽られて折れてしまいます。これは戦において凶兆を指し部下たちは敵への攻撃を一時待つよう進言しましたが、孫堅は気にせず部下を引き連れて出撃しました。そして、逃げた敵を追撃した際、待ち伏せしていた敵軍から矢を浴びせられ戦死してしまうのでした。
享年37歳、強き猛虎の魂は彼の息子である孫策、孫権へと受け継がれていくことになります。
エピソード
・孫権は立派な容姿と広い度量を持ち、小さなことを気にしない人物であったといわれています。
・孫家は、春秋時代の兵法家:孫武の子孫といわれていますが、正確な証拠は出ておりません。
・孫堅の人間的魅力に惹かれ、部下になった武将のほとんどが裏切ることなく孫家に仕え続けています。
・孫堅の統治した場所は治安が良くなり、乱世にあっても秩序が保たれていたともいわれています。
私 見
若いときから武勇に優れ、行動力にも溢れる孫堅の活躍があってこそ、後の呉という国が成立したことは間違いない事実でしょう。大将としても、父親としても周囲の期待に応えようとする意志が生涯を見ていくと感じられます。
孫堅の長所は、
・正義感が強く、行動力も併せ持っていること。
・軍をまとめ、精強にする指揮能力を持っていること。
短所は、
・血気盛んな故に、冷静さを欠くことがあること。
・物事の大局を見て行動できないこと。
こんなところでしょうか。普段の人柄は良いが気性が荒いというのは、昔のお父さん方にはありそうな正確に感じます。良くも悪くも「生き様は自分の背中で見せる」タイプだったんでしょうね!しかし、玉璽を隠すためについた嘘が真実になってしまうとは・・・発言は注意して行わなければいけませんね・・・。
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