究極の忍耐!徳川家康とは!?

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皆さん、こんにちは!こんばんは!うまぽよです🐴✨

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さて、今回は誰もが知っている、長く耐え忍んだ末に天下を掴んだ英雄をご紹介いたします!その生涯を一緒に学んで、人生のヒントを見つけていきましょう!

「天下泰平、今こそ成し遂げるときぞ!」

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英雄名

徳川家康(とくがわ いえやす)

年 表

まずは年表で確認していきましょう~🎵

・1542年 松平家に生まれる

・1547年 今川家の人質に出されるが、織田家にも拉致される

・1549年 今川家の人質アゲイン

・1555年 元服

・1557年 今川家から正室を迎える

・1560年 今川義元が戦死。今川家から独立する

・1562年 織田家と同盟を締結

・1564年 三河一向一揆を平定

・1566年 「徳川」姓を名乗る

・1569年 遠江(静岡県)を奪う

・1570年 遠江の浜松城を本拠地とする

・1572年 三方ヶ原の戦いでう〇こ漏らす

・1575年 長篠の戦い

・1579年 長男:信康を自害させる

・1582年 本能寺の変が発生

・1584年 小牧・長久手の戦い

・1586年 豊臣秀吉に従うこととする

・1590年 秀吉の命を受けて、関東に移住。江戸城を本拠地に

・1600年 関ケ原の戦い

・1603年 征夷大将軍に任命

・1614年 大阪冬の陣

・1615年 大坂夏の陣

・1616年 病死しちゃう

・・・ふぅ。。長いな((+_+))

生 涯

三河(現在の愛知県東部)の小大名から成り上がり「関ケ原の戦い」に勝利して天下統一を成し遂げた家康ですが、その人生は決して楽なものではありませんでした。

家康は三河の豪族である松平広忠の長男として生を受けました。かつては三河一帯を支配していた松平家でしたが、家康が誕生したころには大きく衰退していました。東に今川家、西に織田家という強力な周辺勢力に囲まれていたため、存亡の危機にさらされていました。

父:広忠はこの危機を打破すべく、今川家への従属を決めると当時6歳であった家康を人質として送り出しました。後の天下人の幼少期は、なんと明日の命さえも分からない不遇の状況であったのです(辛いよね・・・( ;∀;))。

この人質生活は10年以上にも渡り”桶狭間の戦い”にて今川義元織田信長に敗れるまで続きました。義元の死後、ようやく人質から脱却した家康は素早く動いて今川領であった岡崎城を奪還しました。弱体化した今川家を見限って、急成長する織田信長と同盟を結び、結果として三河統一を成功させました。また姓を「徳川」に改名して官位を賜っています。

信長との協力関係によって、領土拡大を成し遂げた家康でしたが、次第に織田家からの扱いが厳しくなっていきました。武田家から侵攻を受けた時には援軍をもらえず大敗、嫡男の信康が武田家と内通しているという疑いが掛かった際にも信長は信康を切腹させるよう暗に家康に迫り、大事な跡継ぎを自身の命によって死なせてしまいました。

その信長は1582年に”本能寺の変”によって死亡。それを聞いた家康は軍備を整えると、すかさず空白地となった甲斐(現在の山梨県)と信濃(現在の長野県)に侵攻して領土を拡大しました。わずかの差で信長の後継者として覚醒した豊臣秀吉に勝てませんでしたが、”小牧・長久手の戦い”で三河武士の意地を見せることに成功。その結果、豊臣政権下でもトップクラスの影響をもつ大大名として地位を確立しました。

豊臣に従ってもなお、家康は天下取りをあきらめてはいませんでした。その野望を察した秀吉によって、当時はまだ発展途上であった江戸に国替えさせられると所領と軍備の増進に励み、来るべき決戦のために準備進めていったのです。

そして、秀吉が亡くなるとまたも素早く行動を開始。秀吉の遺言さえも上手く利用して政治の実権を握るとともに、各地に味方を増やす努力を重ねました。家康のこうした行動に対して、前田利家石田三成らが反発すると更に得意の「待ち」を発動。一番の対抗勢力である前田利家が亡くなるまで堪え、もはや自分と対等に戦える相手がいなくなったと見るや、本格的に政権奪取に動き出しました。

そして1600年、天下分け目の”関ケ原の戦い”では、家康率いる東軍が勝利を収め、続く”大阪の陣”にも勝利して天下は徳川の名のもとに再統一されたのでした。長きにわたる戦国乱世はここに集結し、以後長期に及ぶ江戸時代が開幕したのでした。

エピソード

・忍耐強いイメージのある家康ですが、実は怒りっぽい性格(特に戦場において)でもあったとされ、思い通りにいかないことがあると爪を噛み続け、”関ケ原の戦い”では寝返りを渋る小早川秀秋に対して腹を立てたとも伝わります。

・家康は人生を振り返り「人生とは重き荷を背負って、遠くの道のりを歩くようなものだ」という言葉を残しています。

・家康は、小柄で肥満体系であったと伝わりますが、剣術・馬術・弓術等の武芸を幅広く修め、知識も高く、鷹狩や薬づくりといった趣味も数多く持っていたとされています。

・暴君を戦いの後に打ち倒し、長期政権を敷いた周・漢・唐の人物が特に気に入っており、それを活かして幕府体制を作ったと思われます。

・敵であった武田信玄には苦渋を舐めさせられますが、治世や軍事についてはそれを手本としていたといいます。

徳川家とは?

家康が「徳川」姓を使用するのは、1566年、25歳の時からでした。それまでの姓は「松平(まつだいら)」でございました。

松平家は、室町時代に僧侶が三河(現在の愛知県)に住んだことが起源とされています。

家康の祖父である7代当主:清康の時に勢力を広げ、岡崎城を本拠地として三河のみならず尾張(現在の愛知県)の一部まで領土としました。

しかし、清康は部下によって暗殺されてしまい、松平家は衰退し駿河(現在の静岡県)の有力大名である今川家に従属せざるを得ない状況になってしまいました。

9代当主となった家康は、幼少期に今川家の人質となりましたが、”桶狭間の戦い”において今川義元が戦死すると、今川家から独立し1564年に三河を統一するまでになりました。ただ、「松平」姓では、朝廷から官位をもらうことが困難であったため、公家に働きかけて源氏の姓「徳川」を名乗ることを許してもらいました。

その後、浜松城に本拠地を移して数多の戦場を駆け抜けた家康は、1603年に征夷大将軍となり、以降300年にわたり日本を治める基礎を築いたのです。

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私 見

特段大きな家の生まれではなく、決して楽ではなかった幼少期を過ごした家康。しかし、そうした生まれや経験全てを糧として、最終的に3英傑の中で最長の治世を収めることとなりました。

家康の長所は、

・周囲の状況を冷静に考え、どう行動すべきか判断できること

・忍耐強く、確実なチャンスが来るまで待つことができること

短所は、

・究極の二面性をもっていること

・意外に短気で、自分の思惑を周囲に伝えないこと

こんなところでしょうか。短所の部分については、乱世を生き抜き、天下を掴むためであれば必要な技能であるといえるかもしれません。しかし、苦労の先に天下を掴み長い政権を敷いたことは紛れもない事実です。現代の私たちも、じっくりと自分自身を磨き続け、チャンスを逃さずに動きたいものですね!

さて、いかがだったでしょうか。皆さんの人生に役立つことはありましたか?

この記事を読んだ方に幸福が訪れますように!

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