東海道一の弓取り!今川義元とは!?

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さて、今回は戦国屈指の実力を持ちながら、予想できない悲劇によって散っていった名将をご紹介いたします!その生涯を一緒に学んで、人生のヒントを見つけていきましょう!

今川義元:コーエーテクモゲームス

「我が軍の勝利、天地が逆になっても揺るがぬわ!」

英雄名

今川義元(いまがわ よしもと)

年 表

まずは、年表で確認していきましょう!

・1519年:今川家に生誕する。

・1523年ころ:出家する。

・1536年:今川家当主を異母兄と争う(花倉の乱)。勝利して当主へ。

・1537年:武田家から正室を迎えて、同盟を締結。
     北条家に敗退、領土の一部を失う。

・1540年:三河(愛知県)へ侵攻。

・1542年:小豆坂で織田家と戦う。

・1545年:北条家から領土を奪い返す。

・1547年:三河の松平家を従わせる。

・1548年:小豆坂で織田家と再戦して勝利。

・1549年:松平竹千代(後の徳川家康)を人質にして三河を支配。

・1554年:武田・北条家と三国同盟を締結。

・1555年:軍師であり教師であった太原雪斎を失う。

・1560年:桶狭間の戦いにて戦死。

生 涯(1519~1560年)

義元は、駿河・遠江(静岡県)を支配し、征夷大将軍の継承権をもった名門:今川家の5男として生を受けました。さては名家の跡継ぎとして、過保護でボンボンな生活を送っていたのかといえばそういうことはなく、兄である氏輝が当主となることが決まっていたため、義元はなんと4歳にして仏門に入り、善徳寺という所に預けられることとなりました(一休さ・・・いや、何でもないです)。ここで義元は生涯の師匠であり軍師:太原雪斎と出会い、徹底した教育を受けるのでした。

1536年に兄:氏輝が急逝すると状況は一変。今川家当主の座を異母兄と争いました(花倉の乱)。雪斎らの活躍もあって、この骨肉の争いに勝利した義元は、はじめに周辺国との外交問題に手をつけました。当時の今川家の周りには武田家や北条家、織田家がおり対応に追われていました。そこで義元は雪斎を軍師に任命してその解決を図りました。最も危険な存在である武田家と同盟を結んだことを主軸として、その他の勢力と小競り合いを繰り返す中で徐々に領土を広げていき、三河(愛知県)の松平家を帰順させました。極めつけは、武田家・北条家との三国同盟を実現させて地盤を固めました(めっちゃ活躍しとるやん!(^^♪)。

その結果、今川家は駿河・遠江・三河の3国を支配する大大名となり、統治や外交に優れた手腕を発揮する義元を人々は「東海道一の弓取り(東海道で最も優れた戦上手)」として称賛しました。まさに敵なしの今川家でしたが、1555年に軍師である雪斎が亡くなると、義元は少しずつ壊れていきます。

白塗り顔に細眉毛、お歯黒を付けるという奇妙な容姿となり、それは「武将」ではなく「公家」そのもの。また、移動の際には輿(こし)に乗り常に身分の高さを誇示するようになっていったのです。

やがて、室町幕府の権威が失墜すると、義元は自分こそ征夷大将軍に最も相応しいとして、2万5千もの大軍を率いて上洛を開始。その道中には尾張(愛知県西部)の織田家、美濃(岐阜県南部)の斎藤家の領土がありました。義元は狡猾な美濃のマムシ:斎藤道三に注意を払って進軍しますが、本当に警戒しなければならないのは織田家・・・そう、戦国魔王:織田信長でした。

1551年に信長は家督を継いでいましたが、その評判は高くなく”天下のうつけ者”として知られており、当時の義元からすれば道端の石ころと等しい存在だったと考えられます。「織田の小勢なぞ、我が大軍をちらつさせれば降伏するであろう・・・」しかし、その慢心が義元の運命を決定づけてしまいました。

1560年、激しい豪雨にさらされる桶狭間。間延びした今川の大軍に雷の如く鋭い奇襲をかけた織田の精鋭。その切っ先が狙うは義元の首ひとつ。今川の大軍は突然の出来事に足並み揃わず、義元自身も混乱の中で戦死してしまうのでした。

稀代の戦上手とまで称された義元でしたが、戦国魔王が台頭するダシに使われてしまうという、なんとも悲劇的な最期でございました。

今川家とは?

今川家は、足利将軍家一門である吉良の分家です。ということは、足利家や吉良家から将軍候補が生まれなかった場合、征夷大将軍に就任する権利をもっている家柄であるということです。

駿河(現在の静岡県)を代々支配しており、周辺地域にも多大な影響力をもっていました。しかし、15世紀の末ごろから、当主争いが発生するようになってきました。義元の父である氏親が当主就任の時には北条早雲の介入を受け、義元自身の当主就任の際にも対立が起きました。

ただそれも、義元が当主となってからは安定を取り戻した上に、領土を三河(愛知県)まえ拡大させるに至りました。更に、武田家・北条家と三国同盟を締結させ、統治の充実を図りました。

しかし、1560年、桶狭間の戦いによって義元が死亡すると今川家は崩壊の一途をたどり、江戸時代には500石の領地のもと、幕府直属の家来となってしまうのでした。

エピソード

・義元の武芸については、幼くして仏門に入っていたので優れなかったと考えられてきましたが、桶狭間で襲い来る武将を退けたりもしていることから、武芸の素質はあったと近年ではいわれています。

・公家かぶれのイメージが強い義元ですが、様々な文化に精通していました。また、化粧の話は後の創作であったともいわれております。

・上洛の際、家督争いで対立した異母兄が夢に現れて「桶狭間にいってはならぬ」と注意を受けました。「敵である者の助言などきかぬ!」と義元が言うと「私怨で言っているのではない、お家のためだ」と返されたという話があります(ん?エスパーなの?異母兄は?((+_+)))。

・とあるゲームでは、刀と蹴鞠を駆使して戦うトリッキーなキャラクターとしても登場しています。

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私 見

映画やドラマでは、どちらかと言えばやられ役の多いイメージがある今川義元でしたが、今回調べてみると改めて名将だったんだなぁと思わされます。今川家の最盛期と転落期、どちらも発生させていることは興味深いですね。

義元の長所は、

・内部統制に優れていること。

・外交にも強く、領地の地盤固めが上手いこと。

短所は、

・師匠がいなくなってから、慢心が出てきてしまったこと。

・公家の文化に傾倒しすぎたこと。

こんなところでしょうか。信頼していた師匠であり軍師でもあった太原雪斎の死後に狂ってしまうというのが本当であれば、味方を大事にする人物であったのかもしれませんね!大切な人をなくしても、慢心せずに前に進むことが大切、そんなことを考えさせられる武将だと思います。

さて、いかがだったでしょうか。人生に役立つことはありましたか?

この記事を読んだ方に幸福が訪れますように!

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