皆さん、こんにちは!こんばんは!うまぽよです!
今日もご覧いただきまして、誠にありがとうございます!
さて、好評(?)をいただいているランキング企画第2弾:日本の戦国時代にあって、夫を支え続けた賢妻を第5位~第1位まで、発表していきたいと思います!( *´艸`)
いつものごとく、私の独断と偏見による自己満ランキングなので、純粋に楽しんで頂ければ幸いです(*´ω`)
概 要
昔から現在に至るまで、”できる夫”の側には必ず”賢妻”ありと言われております。ついつい、戦国時代にはカッコイイ男性武将に注目してしまいますが、その武将の活躍は、妻の助力があったからこそなのです。今回は、妻としてのサポート力や智勇等を総合的に判断してランキング付けをしてみようという企画です!
では、さっそく見ていきましょう!
第5位
お船の方(おせんのかた)
【夫】直江兼続(なおえ かねつぐ)
お船の方:信長の野望シリーズより
「私の力が多くの方の支えになるのなら・・・」
はず初めにランクインしたのは、上杉家の筆頭家老:直江兼続の妻、お船の方です!(*´▽`*)
大河ドラマ「天地人」では、常盤貴子さんが演じられていましたね!
お船の方は、上杉家の重臣である直江景綱(なおえ かげつな)の娘として生を受けました。後に夫となる兼続とは小さい時からの幼馴染でありましたが、直江家には彼女の他に男子が生まれなかったことから、はじめに直江信綱(旧名:長尾藤九郎)を婿に迎えてその妻となります。しかし、軍神:上杉謙信死後の後継者争いの際に信綱は殺されてしまいました。その後、後継者として選ばれた上杉景勝の取り計らいによって、文武に優れた兼続(当時は樋口兼続)を婿として直江家に迎えさせました。お船の方にとって、兼続との結婚は人生で2回目の結婚であったわけです。
お船の方は容姿端麗で頭も良く、非常に面倒見がよかった女性であり、夫を懸命に支えていきました。その甲斐もあって兼続は自身の手腕を存分に発揮して出世していきます(ちなみに夫:兼続もイケメン!・・・美男美女カップルですか、そうですか( 一一))。夫婦仲も良好で、兼続はこの時代には珍しく、生涯にわたって側室を置きませんでした(イケメンで愛妻家だと・・・!?)。
お船の方の面倒見の良さを伝えるエピソードがあります。
君主である上杉景勝とその正室である菊姫の間には子供がいませんでした。お船の方は菊姫とも親しくしており、世継ぎができないという悩みも聞いていました。そんな中、景勝の側室が待望の男子:定勝を生みますが、ほどなくして菊姫と、生んだ側室までもが亡くなってしまいます。
景勝は思案の結果、信頼する直江夫妻に子:定勝の養育を任せることとし、お船の方は菊姫の分までと言わんばかりに懸命に育て上げました。その気概の根本には、自分たちの間にもうけた子供たちが早世したことも関係していると考えられます。
景勝の子:定勝を立派な武将に育て上げたお船の方の功績は高く評価され、夫である兼続が亡くなった際には、景勝から3000石を賜っています。また、母親代わりでもある定勝との親交も深かったようで、景勝が亡くなった際には、定勝から3000石と部下40人を賜ることとなりました。君主である上杉家が、どれほどお船の方に感謝していたか分かりますよね!
更にお船の方は、夫:兼続の死後に彼の出版した書物を再編集する等、知略も非常に高い女性でした。どれほどのものかというと、「米沢雑事記」という記録には、「兼続様が亡くなっても、お船の方様に何事も尋ねれば良い。彼女は、鎌倉時代でいう北条政子様のような人である」と書かれています(有名な女将軍様と同格とは、すごいことよ!(*´ω`))
81歳で亡くなるまで、彼女は多くの人々の力になっていたことから、面倒見の良さではナンバー1かもしれませんね!
第4位
小松姫(こまつひめ)
【夫】真田信之(さなだ のぶゆき)
本多小松:信長の野望シリーズより
「家族も城も、この私が守ってみせます!」
続きまして第4位には、小松姫を選びました!(^^♪
大河ドラマ「真田丸」では、吉田羊さんが演じられていましたね!
小松姫は、徳川家の四天王であり生涯において1度も戦場で傷を負わなかった猛将:本田忠勝の娘でございます。父である忠勝の提案によって、智勇に優れる真田家の長男:真田信之へと嫁ぐこととなりました。
小松姫は、ハキハキとしていて勇気があり、才色兼備な女性であったといわれています。夫である信之との仲も良く、真田家と徳川家の架け橋として活躍しました。
ここで、小松姫の性格をあらわすエピソードをご紹介いたします。
豊臣秀吉が亡くなると、各地の大名たちは徳川家康率いる東軍と、石田三成率いる西軍に分裂してしまいます。真田家でも家族会議が行われ、小松姫の夫である信之は東軍に、養父である昌幸と義弟である幸村(信繁)は西軍につくことに決定しました。
これから始まる戦の前に、養父:昌幸は夫:信之の居城である沼田城を訪れると「孫の顔をみたいので城を開けてくれんかのう?」とお願いしました。この時、信之から留守を預かっていた小松姫は、「もはや敵味方に分かれてしまったため、養父上であっても門を開けるわけには参りません!」とキッパリ断り、武装して立ちふさがります。
その毅然とした態度に昌幸は感服。「さすがは本田忠勝の娘よ。武家の娘とはこの様でないといかん」と言わしめた後、入城をあきらめさせました。なんと小松姫は、2度も徳川の大軍を退けた謀将:真田昌幸に”負け”を与えたのです。
しかし、ここで終わらないのが賢妻たる理由。その後、城から離れた宿で休憩していた昌幸の元を子供たちを連れて現れると、「孫の顔がみたいと仰っていましたので連れて参りました」と言い、養父と孫の時間をしっかりと作り出したのでした。昌幸は「わしがおらずとも、真田の未来は安泰なり」と付け加え、小松姫に賞賛を贈りました。
公私をしっかりと区別でき、且つ家族愛に溢れる小松姫は、勇敢さにおいてはナンバー1かもしれませんね!(^^)☆
第3位
山内千代(やまうち ちよ)
【夫】山内一豊(やまうち かずとよ)
山内千代:信長の野望シリーズより
「旦那様!これを使って功名となされませ!」
第3位にはこの人、山内千代(以降、千代)を選出したします!(‘◇’)ゞ
大河ドラマ「功名が辻」では、仲間由紀恵さんが演じられていましたよね!☆彡
千代の生まれについては、はっきりとした資料はありませんが、現在の滋賀県出身といわれています。結婚した時、夫である一豊の身分は、織田家の中でもまだまだ低いものでありました。ここから出世して、最終的には大名になるわけですが、そこには千代のサポートが欠かすことのできない要素となっていくのです。
千代は、普段から徒然草や古今集を読み、非常に教養が高い女性でした。また、政治や外交にも通じており、お金の使い道をよく心得ていました。
千代のサポート力を示すエピソードとしては以下の2つが有名です。
1つ目は、織田家で馬備えが行われたときのことです。馬備えとは、織田家の力を内外に示すため、家臣たちの馬を一堂に集めて審査するという催しです。審査を受けて、自身の所有する馬の価値が高いと認められれば、君主である信長から栄誉を与えられます。この時代に立身出世を果たすためには、まず自分の存在を君主に分かってもらわなければなりませんでした。しかも、当時の一豊は家臣の中でもさほど階級は高くなかったため、君主:信長にアピールできるまたとないチャンスだったわけです。一豊は、これに備えて市場を探索、とても立派な馬を見つけましたが、それを購入するお金を持っていませんでした。「せっかくの機会であるのに馬を買う金がないとは・・・(´Д`)」と、自分のふがいなさを嘆く一豊に千代は、家計のやりくり等で貯めてきたお金を渡します。かくして、その馬(鏡栗毛)を手に入れた一豊は見事に信長の目に留まり、加増の栄誉を受けることとなりました。
2つ目は、豊臣秀吉が亡くなった後のことです。平穏であった世の中は再び戦乱の兆しを見せ始めており、諸大名は徳川家康(東軍)につくか石田三成(西軍)につくかの判断を迫られていました。一豊も例外ではなく、頭を悩ませることとなります。そんな中、上杉家に謀反の疑いありとして、家康が軍を動かす事態が発生します。その陣中にいた一豊のもとに、千代から文と密封された手紙が入った箱が届けられました。中にある文を確認すると「徳川家康殿の留守を狙って、石田三成殿が挙兵いたしました。石田殿から西軍に参加するよう手紙が来ましたが、開けてはおりません。時世は徳川殿にあり、旦那様はこのまま徳川殿に味方なさいませ。また、その証として同封した石田殿からの手紙をお渡しください」と書かれていました。一豊はこの通りに動いて家康から高い信頼を得ることに成功し、関ケ原の戦いの後に20万石を超える大名となることができました。
このように一豊は浪人から始まって大名になり、それ以降もずっと千代に支えられていました。機転に優れていた千代は、物事の流れを読むことについてはナンバー1だったといえるでしょう!千代は一豊の死後12年後に亡くなりますが、亡くなった年齢は二人とも61歳でありました(亡くなる年齢も一緒とは、仲良しねぇ( *´艸`))。
第2位
前田まつ(まえだ まつ)
【夫】前田利家(まえだ としいえ)
前田まつ:信長の野望シリーズより
「皆様、何卒ご無事にお戻りくださいませ。」
第2位には前田利家の妻である、まつを選びました!(*^-^*)
大河ドラマ「利家とまつ」では、松嶋菜々子さんが演じられいましたよね!☆
まつは、織田家臣である篠原一計(しのはら かずえ)の娘として生を受けましたが、3歳の時に父が亡くなり、母の妹が嫁いでいる前田家で養育されることになります。夫となる利家とは、そこで出会いました。
8年後、満11歳(は!?早い・・( ゚Д゚))になったとき、いとこである利家に嫁ぐことになりました。まつは、美人で優しい上に、度胸も据わっている女性でした。夫の利家は8歳上でしたが、高身長かつイケメンで槍の腕も達つ猛将で、夫婦仲はとても良かったと伝わります(むむむ、また美男美女カップルだと・・・(‘Д’)!?)。二人にできた子供は、2男9女で11人(内、4女を豊臣秀吉に養女として出しています)!戦国時代でも、これほどの実子をもった例は少なく、その子孫は近代以降の皇族などに血脈を伝えています。
まつのエピソードは、豪胆なものが多く残されています。
信長が本能寺の変で死んでしまった後、豊臣秀吉と柴田勝家が対立して戦が起こってしまいます。利家は両者とも親交があり迷った結果、柴田勝家に味方しました。戦は秀吉側が勝利して終わり、秀吉は敵側についた利家に怒りを覚えていました。そこでまつは、自ら直接秀吉に会いに行って話し合い、利家を許してもらうことに成功します。その後も度々ぶつかり合う利家と秀吉の間に立って関係を取り持ったことで、最終的にこの2人は深い友情で結ばれることとなりました(ちなみに、秀吉の妻:ねねとも非常に仲が良かったとされています)。
妻であっても、夫に対して厳しく指導する場面もあります。元々、お金にケチだった利家に金銀の入った袋を叩きつけ「そんなにお金が大事なら、この金銀に槍を持たせて突かせればよろしい!」と一喝したこともありました(年下女房・・こ、怖い・・・(+o+))。
更に、豊臣秀吉と夫:利家が亡くなった後、天下取りに乗り出してきた徳川家康から、前田家に謀反の疑いを掛けられてしまったときには、家康に怒り軍勢を動かそうとする息子:利長を落ち着かせ、自らが江戸へ人質となることを申し出ることで事を収めました。その人質生活は14年間にも渡る長いものでしたが、まつは耐え抜きました。その後も、徳川家に敵対した親族の助命等に奔走しました。
生涯にわたって親族を愛し、自ら動くことを拒まなかったまつは、行動力についてはナンバー1であったといえましょう!まつは、夫:利家や息子:利長が亡くなった後71歳で没しますが、その懸命な自身の行動力が現代まで残る血脈になったのでしょうね(^_-)-☆
第1位
ねね
【夫】豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)
ねね:信長の野望シリーズより
「さぁ!今日も気張っていってらっしゃい!!」
さぁ、栄えある第1位(私の中で)に輝いたのは・・・豊臣秀吉の妻:ねねさんです!!(*’ω’*)フゥ~♪
大河ドラマ「秀吉」では、沢口靖子さんが演じられていましたよね!☆☆
ねねは、織田家臣の杉原定利(すぎはら ただとし)の娘として生を受けます。秀吉とは、この時代には珍しく恋愛結婚でありましたが、周囲の反対と夫の身分の低さから結婚式は質素なものであったといわれています。それを気にしないかのように夫婦仲は大変良く、秀吉は戦に出ればねねに手紙を書き、天下人になっても2人のときは尾張訛り丸出しで話し、盛り上がったといいます(こういうのいいよね(*´▽`*))。
ねねは、美人でありながら学問にも優れ、性格は豪快で快活、面倒見がよく人徳に溢れた女性でありました。有名なポルトガル宣教師のルイス・フロイスからも「関白殿下の妻は異教徒でありながら、大変な人格者で、彼女に頼めば解決できないことはない」とまで言われています(外国人にここまで言わすとは、大したもんだぎゃあ( ゚Д゚)!)。
秀吉とねねの間に実子はできませんでしたが、その分多くの人々に愛情を注ぐこととなりました。家臣では、一族の者はもちろん、加藤清正や福島正則らに子供の時から愛情を注ぎ続け、同じ妻としては第2位でも紹介した前田利家の妻:まつをはじめとする奥方衆とも良好な関係を築きました。
更に、仕事の面でも非常に優れており、城主として秀吉の留守を守ったり、秀吉が問題を起こしたときはその解決に尽力したり、秀吉が関白になると朝廷との交渉を一手に引き受けたり、人質の管理を担当したりと多岐にわたって活躍していきます。その懸命な姿はたくさんの人々の心を打つこととなり、味方の他にも僧侶や敵方の者までがねねの仕事に手を貸したといわれております。
その賢妻っぷりは、あの魔王:信長も認めるところであり、あるとき浮気が過ぎる秀吉にプッツン( `ー´)したねねは、信長に相談しました。それを聞いた信長は「ねねは会う度に美しくなり、素晴らしい女性であるのに、それに不満をもつとは言語道断である。ねねは、秀吉の正室としてドーンと構えておきなさい。この手紙をあのバカ(秀吉)にも見せてあげなさい」という激励の文をもらっています。あの戦国魔王をも惹きつける魅力を持った女性、それがねねなのです。
このように、ねねの強力なサポートがあったからこそ、秀吉は百姓から天下人という戦国一の出世を実現できました。そこには夫の他にも、数多くの人たちが幸せになってほしいというねねの愛があったのでしょうね。愛情の深さに関しては間違いなくナンバー1でございます!☆彡
まとめ
さて、いかがだったでしょうか。戦国時代の夫婦関係とは、今でいう会社の共同経営者のようなものでありました。的確なサポートや助言があってこそ、組織を大きく成長させることができるわけです!そう考えれば、ここで紹介してきた女性たちの生涯からも、現代に生きる我々を成長させるヒントがあるかもしれませんね。
まだまだ賢妻はいますが、それはまた今度にしましょう!
この記事を読んでいただいた方に幸福が訪れますように!!