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さて、今回は現在も山形に立派な像がある名将をご紹介いたします!その生涯を一緒に学んで、人生のヒントを見つけていきましょう!
最上義光:コーエーテクモゲームス
「大将と士卒は表裏一体、どれも欠けてはならんのだ」
英雄名
最上義光(もがみ よしあき)
年 表
まずは、年表で追っていきましょう!
・1546年 最上家に生まれる
・1560年 元服し、寒河江城攻めで初陣
・1564年 妹:義姫が伊達家に嫁に行く
・1574年 最上家の当主となる
・1574年 父:義守、弟:義時が反乱するが、これを平定する
・1577年 天道家に侵攻するも失敗。織田信長と友好を結ぶ
・1578年 柏木山の戦いで伊達家と戦う
・1583年 庄内地方へと侵攻する
・1584年 山形一帯の支配を固める
・1588年 伊達家と戦うも、妹:義姫によって仲裁。庄内地方を上杉家と争う
・1590年 豊臣秀吉に従い、24万石の大名となる
・1591年 徳川家康と親交を結び、次男:家親を人質に出す
・1592年 朝鮮出兵に従い、備前(佐賀県)に出陣
・1595年 娘:駒姫を豊臣秀次の側室に送り出す
・1600年 徳川家康に味方して、上杉家と戦う。戦後、57万石に加増
・1614年 病死する
生 涯
名前を「よしみつ」とついつい読んでしまいたくなる”モガミン”こと最上義光は1546年に最上家の長男として生を受けました。義光は、幼少期から背が高くて武勇にも優れる利発な少年でした。しかし、父:義守との仲は悪く、後にそれは家中を巡る事件へと発展していきます。
当時の最上家は、足利将軍家の一族という名門でありながら弱小勢力の一つでしかありませんでした。義光は1560年に初陣を飾り奮戦しましたが、結果は芳しくないものであったといわれています。家名存続と拡大を図る最上家は考えた末、1564年に義光の妹である義姫(伊達政宗の母親)を伊達家へ嫁入りさせることにしました。妹思いであった義光は別れを惜しみ、その後も頻繁に妹に宛てて手紙を書くようになりました(シ、シスk・・いや、なんでもない((+_+)))。
1570年、妹が嫁に行ったショックも収まらないまま義光に更なる悲劇が。。。父:義守との対立が決定的となり、次期当主をめぐって争いが発生してしまいます。相手は実の父親、且つその背後には伊達家がいるという四面楚歌の状態でありましたが、義光の機転はそれらを上回り、次期当主としての座を勝ち取ることができました。自国の統治すらできないのであれば、領土拡大など夢のまた夢だと感じた義光は、その後は家中法度を整備する等富国強兵に努めました。
また、武力よりも策略を駆使することが多くなり、敵将の寝返らせる、自身を病と偽って敵の油断を誘う等、時には苛烈で冷酷とも思える戦術を駆使して領土を着実に広げていきました。その最中、甥で東北の麒麟児でもある独眼竜:伊達政宗と争う場面もありましたが、妹:義姫が仲裁に入ったことで剣を収めることもありました。
外交にも力を惜しみなく注ぎ、1590年には豊臣秀吉に従って24万石の領土を獲得しました。その秀吉が亡くなると、次は徳川家康に取り入って信頼を集め1600年には、なんと57万石の大大名として認められるようになりました。
その後は、自国の繁栄のために尽力を重ねますが、1614年に病気によって亡くなってしまうのでした。
エピソード
・義光は、領土拡大に伴い多くの策略を用いてきましたが、本質たる性格は家族思いで、民思いの人情家でありました。家族が亡くなれば何日も涙を流し、民に重税を用いなかったため、義光の統治中は一揆が発生しなかったといいます。「大将と士卒は扇の表裏のように一体となるものであり、家族のようなものだ」と常々語っていました。
・義光は武勇に優れており、得意武器は「金砕棒(かなさいぼう)」と呼ばれる、鬼の金棒のような武器を扱ったとされています(イラストの武器は多分コレ)。ネットでは、「撲殺天使」の愛称で親しまれているようですw
・豊臣政権下のとき、秀吉の養子である豊臣秀次の側室に、美人と名高い娘の駒姫を差し出すようしつこく迫られました。義光は何度も断りますが、最終的には駒姫を豊臣に預けることとなりました。義光は娘の健やかな成長と、お家の安泰を願いましたが、1595年に秀次は謀反の疑いをかけられて、一族もろとも処刑されるという大事件が発生しました。その中には娘:駒姫も含まれており、わずか15歳という若さで亡くなってしまいます。怒りに震えた義光は、以降豊臣に対して憎悪をつのらせていたといわれています。
・先見の明に優れており、早くから火器の取扱に興味を抱いていました。秀吉や家康の味方に付くタイミングも絶妙でありました。
・文化教養人としても名高い義光は、部下らに文学を奨励し、自身は生涯で248句も連歌を詠んでおり、あの細川幽斎に迫る記録を持っています。
・山形の霞城公園には、馬にまたがり勇壮な姿で戦に向かう義光の像があります(これが非常にカッコイイ!!)。また蔵王温泉には、家臣と力比べをしてただ一人で持ち上げたという「義光公の力石」があります。
最上家とは?
最上家は、足利将軍家の一族である斯波(しば)氏の血統に入ります。室町時代の初期に大勢力となりますが、一族同士の争いによって衰退しました。1514年、伊達家と戦って敗れ、その配下となります。最上義守が2歳という若さで最上家10代当主に担ぎ上げられたのも、伊達家の陰謀であるといわれています。
しかし1542年、伊達家に内部分裂が起きると、その混乱に乗じて独立しました。
義光が11代当主となると、山形城を本拠地として周辺の敵勢を滅ぼして、勢力を拡大させていきました。また、妹を伊達家へ嫁がせることで、関係性の改善も行いました。
1590年、豊臣秀吉に従い24万石の大名となる一方で、徳川家康とも関係を深めていき、秀吉死後は家康に従いました。
1600年の関ケ原の戦いには参戦しなかったものの、上杉家に大打撃を与えた功績が認められ、57万石の大名となりました。
しかし、義光が死んでしまうとお家騒動が発生し領地を没収されてしまいましたが、1622年に近江(滋賀県)に1万石を与えられて最上家存続は許されました。
最上義光:コーエーテクモゲームス
私 見
家族や民思いであり、時勢を読むことにも長けていた最上義光は、間違いなく戦国屈指の名将であることが良く分かりました。伊達政宗や直江兼続と戦っても、互角以上の戦果を出していることから、もっと全国的に知られてもいい武将であると思います!
義光の長所は、
・自国の民を含め、身内に対して優しいこと。
・知略と武力の使い分けが上手く、お家最大の領土を獲得したこと。
短所は、
・冷酷な戦略をためらわずに使用できること。
・妹を溺愛しすぎていること。
こんなところでしょうか。短所の2番目はネタみたいなもんですけどね!しかし、実際妹の義姫も戦場に輿に乗って登場し、戦を仲裁するほどの胆力を持っていることから、この家系はとんでもない一族であることが分かります!統治者たるものの神髄を見た気がします。こんなリーダーが現代も必要とされているのではないでしょうか!?
さて、いかがだったでしょうか。皆さんの人生に役立つことはありましたか?
この記事を読んだ方々に幸福が訪れますように!!
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