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さて、今回は恐ろしいほどの武勇と忠義を誇る戦国武将を紹介いたします!その生涯を一緒に学んで、人生のヒントを見つけていきましょう!
立花宗茂:信長の野望シリーズより
「苦境の時ほど励まねば。皆の力を貸してくれ!」
英雄名
立花宗茂(たちばな むねしげ)
年 表
まずは、年表で確認していきましょう!
1567年 高橋紹運(しょううん)の長男として生を受ける。
1581年 立花道雪の婿養子となる。
1585年 道雪が病没し、その後を継ぐ。
1586年 実父:紹運が戦死。島津家に城を包囲される。
1587年 豊臣秀吉が九州征伐を開始。
筑後(福岡県)柳川城主となる。肥後(熊本県)一揆を平定。
1590年 小田原攻めへ参戦。
1592年 文禄の役に参戦。
1593年 明軍を敗走させる。
1597年 慶長の役に参戦。
1600年 関ケ原の戦いでは西軍(豊臣側)へ協力。
大津城を攻略したが、西軍敗北により領地は取り上げられる。
1602年 妻:誾千代(ぎんちよ)が死去。
1603年 陸奥棚倉1万石の大名となる。
1610年 3万石へ加増となる。
1614年 大阪冬の陣に徳川軍として参戦。
1615年 大阪夏の陣に徳川軍として参戦。
1620年 越後柳川城主へと返り咲く。
1637年 養子:忠茂へ家督を継がせる。
1638年 島原の乱平定に協力。
1642年 死亡。
生 涯
立花宗茂は1657年に、豊後(現在の大分県)大友家の重臣:高橋紹運の子として生を受けました。父の紹運は、武忠の誉れ高き名将であったことから、宗茂は高橋家の跡継ぎとして大きな期待とともに、大切に育てられました。その甲斐あって、宗茂は幼少のころから聡明であり、家中の評判も非常に高かったといわれています。その類稀な才能に目を付けたのが、大友家家臣中、最大の実力者で「鬼道雪」の異名をとる猛将:立花道雪でありました。男性の実子がいなかった道雪は、同僚である紹運に「是非とも、統虎(たねとら:当時の宗茂の名前)を我が養子にいただけないか!」と懇願しました。
紹運としては、聡明で大切にしていた跡継ぎを手放したくありませんでしたが、道雪の必死すぎる頼みに負け、宗茂は立花家の娘である誾千代(ぎんちよ)と結婚することによって、婿養子に入ることとなりました。
当時の本人からすれば、不本意なものであったかもしれませんが、戦国の中でも屈指の「忠義」と「武勇」を誇る2人の父(養父)によって、元々高かった宗茂の才能は、急速に開花していくのでした。
養子に入った1581年に初陣を飾ると実父・養父の戦術を見事に吸収し、翌年の戦では敵軍の包囲を破り、そのまま城まで落とす大活躍をみせます。更に1584年には、2人の父の留守を狙ってきた敵の大軍を、戦術を用いて追い返しています(おいおい、どんだけの戦上手やねん(‘Д’))。順調に勝利を主家に捧げていた宗茂でしたが、1585年に養父:道雪が病没、1586年には実父:紹運が敵軍に包囲され戦死という不幸に見舞われてしまいます。しかし、宗茂は豊臣秀吉の九州征伐まで敵軍の猛攻を耐え抜き、その後逆転の活躍をみせたことで、サr・・・秀吉から高く評価され、筑後13万5000石の領地が与えられるとともに、独立した大名として取り上げられました(これはまた、えらい出世だぜぇ!!)。
豊臣政権下では、明軍との戦いでも活躍して武勲を重ねていきました(その活躍があまり目立たないのは多分・・・この人のせいw)。その能力の高さは、次の天下人:徳川家康の目にもとまることとなり、1600年の「関ケ原の戦い」に向けて味方に引き入れようと誘われますが、豊臣家からの恩に報いたい宗茂はこれを拒み、敗戦覚悟で西軍に味方しました。結果として西軍は敗れてしまい、宗茂も領地を没収され、浪人の身となってしまいました(大名からの浪人へ転落・・・辛い( ;_;))。更に、その2年後には妻:誾千代も病没してしまいます。こうした絶望的な状況の中でも宗茂は、ついてきてくれた家臣とともに質素ながら堅実な生活を送っていました。その状況を知った戦国の猛将:本多忠勝の推薦と、家康自身の熱心な誘いがあり、宗茂は1万石の大名へと復帰するのでした(これは奇跡の大復活!( *´艸`))。戦国最後の大戦「大阪の陣」でも活躍した宗茂には、再び旧領である筑後が与えられることとなり、「関ケ原の戦い」で西軍についた者の中で改易後に自分の領地を取り戻した唯一の武将となりました。
その後も、内政や各大名たちとのパイプ役として手腕を発揮した宗茂は、1643年に76歳で亡くなるまで、その才能をフルに活かしたのでした。
エピソード
・宗茂は身長180cm、徳があって驕ったところがなく、善によって行動し、家臣を上手く用いる。民を大事にして、義理堅い。戦場においては、戦術を用いることを得意とし、確実に勝利を得る、という完璧超人であったといわれています(こりゃあ、天下人が欲しくなるわけだ(*´ω`))
・武芸だけではなく、笛、和歌、俳句、仏像製作等にも精通した文化人でもありました
・宗茂が幼いとき、猛犬が襲ってきたときのこと。宗茂は冷静に刀を構えると、すれ違いざまに軽く叩いて猛犬を撤収させました。実父:紹運が、なぜ犬を斬らなかったのか問うと「刀とは、”敵”を斬るものにありますれば。」と返答し、紹運を驚かせたといわれています(何この子・・・すごすぎる・・・( ゚Д゚))
・秀吉は、九州征伐において多大な功績を残した宗茂に「東国にかくれなき本多忠勝、西国無双の立花宗茂」と称え、更に「その忠義は鎮西一、またその剛勇も鎮西一」とベタ褒めされています。
立花宗茂:信長の野望シリーズより
立花家とは
立花家は、大友家の一族であり、筑前(福岡県)立花城を本拠地としていたことから「立花」を名乗ったといわれています。1336年に、足利尊氏が反乱を起こしたとき、立花家は尊氏に味方して武勲をあげていきました。
立花家は、中国地方の大内家に従った時期もありました。1557年、大内家が滅びると当主:鑑載(あきとし)は大友家の家臣となりましたが、1568年には反乱を起こしてしまい、立花家は一度滅びてしまいます。
しかし、1571年に大友氏の重臣である戸次鑑連(べつき あきつら)が立花家の後を継いで「立花道雪」となったことから家の存続が成りました。1585年に道雪が亡くなると、養子である宗茂が家督を継ぎました。
1587年、豊臣秀吉の九州攻めで活躍した宗茂は、筑後(福岡県)の柳川城を得て大名となりましたが、1600年の関ケ原の戦いに西軍が敗れたことでその領地を失ってしまいます。
1603年、宗茂の不屈の活躍によって、徳川家康から1万石の大名として復帰を許されます。1620年、旧領地であった柳川城を与えられ、立花家は完全な復興を果たしました。この柳川藩は、明治維新まで続き、立花家は”伯爵”の称号を獲得したのでした。
私 見
その生涯において、ほとんど負け戦がなく、人格も教養も高いという完璧人間:立花宗茂。調べていてとても快活でした。戦国という混乱の時代にあって、これだけ野心に染まることなく美談が多い武将も稀ではないでしょうか。
宗茂の長所は、
・戦上手、内政上手、文化上手と個人の能力において、完璧であること
・周囲の期待に応え、率先して動くことで結果を残していること
短所は、
・起きる不幸の度合いが高すぎること
こんなところでしょうか。短所は、自分にはどうしようもないことなので、短所らしい部分はないかなとも思いますね。どんな状況にあっても、自分のベストを尽くす!・・・こういったところに、宗茂の輝きがあるように感じますね!
さて、いかがだったでしょうか。人生に役立つことはありましたか?
この記事を読んだ方に幸福が訪れますように!!