徳川幕府の立役者!本多正信とは!?

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さて、今回は徳川家に仕えた謀略家をご紹介いたします!その生涯を一緒に学んで、人生のヒントを見つけていきましょう!

 

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「時代の先を読み布石する。それだけのことよ」

英雄名

本多 正信(ほんだ まさのぶ)

生 涯(1538~1616年)

謀略家として知られる本多正信は、三河(現在の愛知県東部)の本田俊正の子として1538年に生まれました。当初の正信は、徳川家康に鷹匠として仕えていましたが、25歳のころに三河で一向一揆が発生すると一揆側に味方して家康と対立。一揆が鎮圧されると、出奔して大和(現在の奈良県)へと渡り、梟雄として名高い松永久秀に仕えたといわれています。

その後、正信は久秀からも離れて諸国を放浪し、最終的には大久保忠世のはからいで徳川家に再び帰参することを許されたと伝わりますが、詳しい時期は定かではありません。

しかし、1582年の「本能寺の変」が起こった際には家康とともに伊賀越えを行った記録があることから、遅くともそれ以前には家康の下にいたことになります。

家康が武田家の旧領を得た時に、正信は奉行として甲斐(現在の山梨県)と信濃(現在の長野県)の統治を任されており、政治能力の高さが伺えます。

天下の人たらし:豊臣秀吉が亡くなると全国各地の大名は再び分裂して、争い始めました。正信は、家康の参謀役として様々な策謀を巡らせて徳川家の勢力拡大に尽力し、家康からの高い信頼を獲得していきます。

1600年に起きた天下分け目の大決戦「関ヶ原の戦い」では、家康の息子である秀忠に付き従って決戦場に遅参するという失態はありましたが、幕府開設の際には家康の将軍就任に向けて朝廷との交渉に力を尽くして江戸幕府成立の立役者となりました。

家康が隠居して秀忠が2代目将軍となると、正信は秀忠の顧問として権勢を振るいました。

古参の家臣である本多忠勝や大久保忠隣といった武断派からは、反感を買いましたが、戦のない世の中にあって必要とされるのは正信のような政治力ある者たちであり、その後も出世していき、息子に家督を譲り79歳で亡くなるまで、その手腕を発揮し続けたといわれています。

エピソード

・松永久秀は正信のことを「武辺者が多い徳川家において、正信は非常にできた人物である」と評しています。

・家康の真意を見抜く力もあり、家康からは「友」と呼ばれていたとされています。

・他の家臣たちが家康に叱責を受けた際にもその間に入って両者をなだめたことから、中間管理職としても優れていたことがうかがえます。

・正信は自分の死後、領地が増加されることに対して「これ以上の増地は望むべきではない。増地を行えば災いが降りかかるであろう」と息子に話していました。しかし、息子である正純はこれを破った結果、改易させられてしまうのでした。

私 見

主君に歯向かったり、戦場に遅刻してしまうといった失態もありながら、優れた政治能力をもって戦国時代をのし上がっていく正信の生き方は男らしく、人間味に溢れているように感じます。

正信の長所は、

・優れた政治能力で家康を支え続けたこと。

・時勢を読む力が強く、前もって様々な事を考えられること。

短所は

・信念を貫くあまり、周囲とぶつかることがあること。

・息子への教育を徹底できなかったこと。

こんなところでしょうか。正信の言葉の中に「良い政治は勝ち、悪い政治は負ける。勝負の根本は国を治めることにあるのだ」というものがあります。まさに今の日本の政治の根本がこれに沿っているのか見直すべきところに来ているのではないかと考えてしまいます。

さて、いかがだったでしょう。皆さんの人生に役立つことはありましたか。

この記事を読んだ方々に幸福が訪れますように!!







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