来いよ、七難八苦!山中鹿介とは!?

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さて、今日は尼子家復興のため、自らに苦難を求めた武将をご紹介いたします!その生涯を一緒に学んで、人生のヒントを見つけていきましょう!

               山中鹿介:コーエーテクモゲームス

「主家復興のためならば、いかなる困難も乗り越えてみせよう!」

英雄名

山中鹿介(やまなか しかのすけ)

生 涯(1545~1578年)

出雲(現在の島根県)を統治していた戦国大名:尼子家。かつて尼子経久が築いた一大勢力は、そのひ孫である尼子義久の代で、隣国の毛利家の侵攻に頭を悩ませていました。しかし、そんな劣勢の状況にあって、武名を馳せる若者がいました。その若者こそ、後に尼子十勇士の一人となる山中鹿介です。

幼少期から尼子家に仕え、8歳で敵を討ち、13歳で敵将の首を取ってくるという猛将ぶりで、毛利家をはじめとする周辺諸国からの侵攻を鈍らせていました。

とはいえ、最大のライバルである毛利家の軍事力は圧倒的であり、ついに1566年、主である義久が降ってしまったことで尼子家は滅亡してしまいます。義久やその親族らは幽閉され、長年支えてきた家臣団も散り散りになってしまったことで、客観的に見れば尼子家の未来は閉ざされたも同然でしたが、鹿介はそうした屈辱にまみれてもなお、主家の再興を願っていました。

20歳になった鹿介は、夜空に浮かぶ三日月に向かい「願わくば、我に七難八苦を与えよ!その苦難を撃ち破り、お家再興を果たしてみせる!」と叫び決意を固めたとされています。

24歳になると、鹿介は尼子家の遺臣団を結成するために、京都の仏門に入っていた尼子勝久を対象に擁立。加えてかつての家臣や豪族たちを味方につけて力を増し、出雲の大半で領土を回復するまでの勢いを見せるまでになりました。

しかし、急に集めた軍であったためか一度の敗北で士気が大幅に減少。味方の離反者が相次ぎ、毛利家の猛攻を止めることも叶わず、敵軍切手の勇将:吉川元春に鹿介は捕まってしまいます。

状況的は万事休すでしたが、鹿介はここでもしぶとさを発揮。腹痛と偽って何度も厠へ行き、糞尿にまみれながら監視の目を盗んで逃走。尼子勝久とともに京都を逃れて、次のチャンスを待つのでした。

今のままの少数部隊では宿敵である毛利家を討てないと考えた鹿介は、中央で勢力を拡大する戦国魔王:織田信長に助けを求めました。尼子遺臣団が織田軍の中国攻めの先鋒になることで、毛利家に対抗しつつ旧領を回復していこうと画策したのです。

この策は途中まで見事に成功し、織田軍の強力な後ろ盾を得ながら因播(現在の鳥取県)の城を次々に落とし、旧領回復の足掛かりとなる地を獲得。お家の再興は目の前のところまで来ました。

ところが、再び毛利家の反撃を喰らうと今度は古参の尼子家家臣が毛利方に寝返るという事態が発生し、更に信長からの助力が途絶えてしまいます。戦力低下と強力な後ろ盾を同時に失ってしまった鹿介は、またも後退せざるを得なくなってしまいます。

その後も、名目上は織田軍の中に配属されていましたが、実際は捨て駒のような扱いでありました。

そして1578年に毛利家からの侵攻があったとき、信長は中央の軍備を優先するため中国地方から軍を引き上げました。それによって完全に孤立した鹿介らは、尼子家完全滅亡を目論む毛利家の猛攻の前に成すすべなく敗北、降伏してしまいます。

今回ばかりは逃走も叶わず、対象の尼子勝久は自害。尼子旧家臣団は解体され、鹿介自身は再度吉川元春の捕虜となり、護送されることとなりました。

これまで毛利家は尼子家再興の者共に何度も煮え湯を飲まされており、またその一番の原因が鹿介であることを理解しており、もはや鹿介を消すこと=尼子家の完全滅亡という認識で一致していました。

護送の道中で、鹿介は吉川元春の命令を受けた刺客に殺害されてしまうのでした。

鹿介この時34歳。夜空の三日月に誓いを立ててから十年余りの「お家復興の夢」が終わりを迎えた瞬間でした。

エピソード

・鹿介は通称であり、本名は山中幸盛(ゆきもり)。優れた武勇を持っていたことから「山陰の麒麟児」の異名を持っています。

・出生日、出生地ともに詳しいところは確定していない武将でもあります。

・容姿端麗、人に対して贔屓することがない性格というハイスペック男子であったといわれています。

・母親である「山中まみ」は賢母として有名であり、苦しい経済状況の中でも、貧しい者がいれば服や食事、宿を与えた言われています。また鹿介には「自分に従う人を大切にしなさい。見殺しにしたり、手柄を独り占めにしてはいけません」と言い聞かせていました。

・鹿介は多くの戦場に立ちましたが、生涯で挙げた首級の数は66といわれています。

私 見

卓越した武勇を持ち、何度も何度も主家の再興のために奔走した鹿介。悲劇的な最期を迎えてしまいますが、これほどまでの武と忠を併せ持った武将が最初に出会ったのが尼子家ではなく、織田家や宿敵の毛利家であったのなら、その後の歴史は大きく変わっていたのかもしれませんね。

鹿介の長所は、

・自分の信念を曲げることなく、真っすぐ進んでいけること。

・並外れた武力と忠誠心を持っていること。

短所は、

・時代を読むことが苦手なこと。

・苦難の先に栄光が待っていると信じすぎること。

こんなところでしょうか。戦国という時代を生き抜くには、鹿介はあまりに純粋・真面目過ぎたのかもしれません。しかし、そうした要素は本来人間を良い方向に導くものであり、現代を生きる我々には逆に必要な部分であると思います。高い信念を持って、時代を生き抜く・・・考えさせられる武将です。

さて、いかがだったでしょうか。皆さんの人生に役立つことはありましたか?

この記事を読んだ方に幸福が訪れますように!!

最近の世界情勢は不安定であり、数多くの命が一部の権力者たちによって奪われています。

今こそ国の在り方、人間一人一人の生き方を深く考え行動する時期に来ているのではないでしょうか。

世界に平和を!!







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