皆さん、こんにちは!こんばんは!うまぽよです!
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さて、今回はあの家康も恐れた紅の武将を紹介いたします!その生涯を一緒に学んで、人生のヒントを見つけていきましょう!
真田幸村:信長の野望シリーズより
「我が生き様、この戦にて示さん!!」
英雄名
真田幸村(さなだ ゆきむら)
生 涯
1567年に生をうけた真田幸村は、本名を真田信繁(さなだ のぶしげ)といい、父は表裏比興の謀将:真田昌幸で、兄は名将:真田信之でございます(有名人物しかいねえ・・・(*´▽`*))。幸村は、江戸時代以降に談話や小説等で紹介されたことから一般に広く知られるようになった人物です。時代とともに、本名よりも、通称である「幸村」の名が世の中に浸透してきたため、この解説でも「幸村」を使わせていただきますね。
幸村が幼いころ、主家である武田家が滅亡したため、10代~20代にかけては上杉景勝や豊臣秀吉のもとで人質生活を送っておりました。特に、豊臣秀吉のもとにいた期間が長く、大半を大阪城で過ごしたといわれています。
但し、人質といっても不自由な思いをすることはなく、むしろ秀吉からは気に入られており、智将:大谷吉継の娘との結婚を仲介してもらったりしていました(お前のような人質がいるのか!( ゚Д゚)・・・なんか他にも同じような人いたなw)。そんな状態であったので、幸村の初陣は24歳と当時にしてはかなり遅く、「小田原征伐」に従軍したときでした。後に、天下にその名を轟かせる武将の初陣は、意外にも地味なものであったようですね。
その後、兄である信之が徳川方の与力大名として独立したために、幸村は父である昌幸の後継者として、常に父:昌幸と行動をともにすることとなりました。
1598年、天下人である豊臣秀吉が没し、その子:秀頼が後を継ぎましたが、政権の中で文知(主に石田三成)派と武断(主に徳川家康)派の対立が表面化してきたり、上杉景勝が越後奪還のために帰国したりと、全国に不穏な空気が流れます。
そして1600年、五大老の筆頭:徳川家康は上杉討伐の軍を起こして会津へ向かいました。幸村は、父や兄とそれに従軍しましたが、家康の留守を狙って石田三成が大谷吉継とともに挙兵。その中で父:昌幸にも家康を弾劾すべしとの書状が届くと、全国の大名が西軍(石田方)と東軍(徳川方)に分かれての「関ヶ原の戦い」がはじまりました。
この状況に真田家では家族会議が行われ、豊臣の与力であった幸村と父:昌幸は西軍に、徳川の与力であった兄:信之は東軍につくこととなりました。幸村と父:昌幸は上杉討伐の軍から離脱すると、本拠地である上田城に戻り籠城を開始しました。
その上田城に、徳川秀忠を指揮官とした30,000人の兵士が押し寄せてきましたが、昌幸・幸村はわずか3,000人の兵士で迎え撃ち、見事に敵軍を退けることに成功しました(この親子、おそロシア(‘ω’))。しかし、関ヶ原における戦で西軍が敗れてしまった結果、昌幸・幸村親子は高野山へと追放されてしまうのでした。
高野山に追放されてからの幸村は、14年間という長い間世捨て人同然の生活を過ごすこととなり病や老いも重なって歯は欠け、髪やひげは白くなってしまいました。また、追い打ちをかけるように、稀代の謀将である父:昌幸も死去。「自分もこのまま、朽ち果ててしまうというのか・・・」そう無念に思っていた幸村に1614年、転機が訪れます。家康と戦う意思を決めた豊臣秀頼から、大阪城への入場要請が届いたのです!
いわゆる「大坂の陣」が勃発したわけですが、このとき幸村はすでに48歳。当時では高齢となった彼に、天は最後の活躍のチャンスを与えました。これを受けると幸村は高野山を脱出し、大阪城へ入るのでした。
幸村は、父:昌幸の後継者として大名待遇として迎えられ、長曾我部盛親や毛利勝永とともに「三人衆」として周囲から敬意を払われました。
大阪城での軍議では、籠城作戦が採用されたことから、幸村は手薄であった大阪城南方の高台に「真田丸」という名の出城を建設して敵軍に備えました。1614年11月からの「大坂冬の陣」では、父:昌幸を彷彿とさせる、敵を引き付けてからの鉄砲戦術で大活躍、敵軍に大損害を与えました。
1615年5月の「大坂夏の陣」においても豊臣方に加わり、徳川本隊へ3度に渡る突撃を敢行。その勢いや凄まじく、あのタヌ・・いや、家康に2度も自刃を覚悟させるほどでした。
幸村は最後まで奮戦し、家康をあと1歩のところまで追いつめますが、最期は力尽きて討ち取られてしまうのでした。しかしながら、その見事な戦いぶりは敵方だった多くの人々の心を打ち、後に書物に記されることとなりました。特に、島津氏の薩摩旧記では、「真田は日本一の兵」と書かれ、絶賛されています。
エピソード
・真田の家紋である六文銭は、三途の川を渡るときの船賃であり、物事に決死の覚悟であたる意味を示しているといわれています。
・幸村の人柄は、柔和で辛抱強く、物静かで怒ることが少ないという、戦場で華々しい活躍をみせる武将からは想像もできない性格であったと伝わります。
・軍記物語などでは、幸村の愛槍は「十文字槍」という細めの槍で、「赤備え」に恥じぬ名槍であったと語られています。
・「大坂冬の陣」の活躍を見た徳川方から、幸村のもとに寝返りを要請する使者が10万石を条件として訪れましたが、「乞食同然だった私を拾ってくださった秀頼公には恩義があり、裏切ることはできない」と回答。条件を信濃一国にランクアップさせても幸村の信念は変わらなかったと伝わります。
・1615年の「大坂の陣」では、自分の部隊の甲冑を赤く染める「赤備え」で戦場へ向かいました。これには、真田の武名を轟かせる決意が込められており事実、現代まで語り継がれることとなりました。
真田幸村:信長の野望シリーズより
私 見
大いなる信念を胸に、戦場を駆け回り真田の武名を天下に知らしめた幸村の生き様は、非常に魅力的かつ儚く感じてしまいます。兄:信之とともに、泰平の天下を治める・・・そんな未来もあったのではないかと、つい想像してしまいます。
幸村の長所は、
・恩義を忘れず、主君のために懸命に尽くすこと。
・武勇のみではなく、知略も磨くことを怠らなかったこと。
短所は、
・若い時のエピソードが晩年に比べて少ないこと。
・最期は戦に散ってしまったこと。
こんなところでしょうか。この時代、死に際に生き様を示すことに美学があったのかもしれませんが、個人的にはどうしても抵抗感があります。しかし、敵方の書物にもあるように、不利を承知で秀頼を見限ることなく懸命に働く幸村の姿は、今も昔も日本人の心を響かせていることは間違いないでしょうね!現代の私たちも、強い信念を持ち自己成長を続け、家族を大切にしていきたいと思わせる英雄です( *´艸`)
さて、いかがだったでしょうか。皆さんの人生に役立つことはありましたか?
この記事を読んでいただいた方に幸福が訪れますように!!