失態からの大出世!仙石権兵衛とは!?

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さて、今回は戦国時代に脅威の出世をみせた武将をご紹介いたします!その生涯を一緒に学んで、人生のヒントを発見していきましょう!!

信長の野望シリーズより

「この戦、誰よりも活躍してみせよう!!」

英雄名

仙石秀久(せんごく ひでひさ) 

生 涯

美濃(岐阜県南部)の豪族出身である仙石秀久(通称:権兵衛)は、斎藤家に仕えておりましたが、その滅亡とともに織田信長の家臣となりました。そして、織田家家臣の中でも頭角を現してきた豊臣秀吉の配下となり、徐々に才能を開花させていくことになります。浅井・浅倉連合軍との「姉川の戦い」で浅井軍の武将を討ち取ったことを皮切りに、秀吉に従軍した「中国征伐」においても相手の城を攻め落とし、秀吉に貢献。秀久に任せておけば安心だと、絶大なる信頼を置かれることとなります。

1582年、「本能寺の変」において信長が倒れ、秀吉が天下へと動き出してからも、秀久の活躍は止まることがありませんでした。反乱の首謀者:明智光秀に味方した豪族たちを討つ務めを果たし、柴田勝家と争っている間には、四国で反抗の意を示した長曾我部元親を抑え込んでいました。四国での戦いは劣勢になることが多かったものの、長曾我部家に海を渡らせることはなかったため、秀吉は柴田軍との戦いに注力できました。

秀久は、この功績が認められ、淡路にて一国一城の主へと昇格します。秀吉の部下の中でも1番に大名へと駆け上がり、まさに順風満帆な出世を果たしたのでした。

しかし、ここで秀久にとんでもない試練が・・・。

「四国征伐」の後の1586年に行われた「九州征伐」で秀久は総大将の大役を任せられます。敵軍を率いるは、九州きっての大勢力:島津家。その大将は、戦略家として有名な島津家久でありました。

秀久が戦場へ出てみると敵の数は思ったよりも少なく感じます。そして、秀吉不在の戦いで大勝を収めれば、更なる出世が待っていると考えた秀久は、部下の進言も聞かず、秀吉からも慎重に動くよう言われていたのにも関わらず、突撃を開始しました。ですがこれは、島津軍の得意戦法「釣り野伏」。勢いに乗って攻める秀久軍、逃げる島津軍。深く追いすぎた秀久軍に現れる伏兵の嵐、秀久は大敗を喫し、尚且つ総大将という身でありながら諸将を差し置いて逃げ出す始末。後の世まで語られる大失態を犯してしまうのでした。

逃げ帰ってきた秀久に、秀吉は大激怒!領地は没収、秀久自身は追放処分を受けてしまいます。ここまで積み上げてきた功績が一瞬で無に帰した秀久の心中はいかほどのものだったでしょう。

その後、しばらく寂しくしていた秀久に名誉挽回のチャンスが訪れます。徳川家康の取り成しにより、「小田原征伐」に参加できることになったのです。

「ここで誰もが納得する功績をつくらねば、もう自分に未来はない。」

そう思った秀久は、自身の陣羽織全体に鈴を付けて出陣しました。動くたびに音が鳴り、敵から狙われやすくなる格好です。それでも次々と襲いかかってくる敵をなぎ倒し、あえて守備の堅い場所へ先陣を切って飛び込んでいきました。その勇壮ぶりは「鈴なり武者」と呼ばれ、秀久の活躍もあって秀吉軍は小田原征伐を成功させます。戦場での見事な活躍が認められた秀久は、ここにきて過去の失敗を許され、大名の座へと返り咲くのでした。

秀吉亡き後は、小田原参陣の大恩ある徳川家康と親交を深め、その子:秀忠のサポート役として活躍。その結果、のちに家康の天下が訪れると小諸藩の初代藩主として、秀忠が将軍となってからも高い信頼を寄せられることになりました。1614年、63歳で病没するまで、破格の待遇を受けたと伝わります。

エピソード

・斎藤家では、目立った活躍はなかったものの、長身で筋骨隆々な秀久の姿を信長は気に入っていたといわれております。

・ルイス・フロイスは、秀久と家臣団について、性格が粗野であるとする一方で、武将としては優秀であったとも述べています。

・小諸藩主時代は、蕎麦を名産品、領民とのコミュニケーションツールにしようと考えており、「仙石さん」として慕われていたと伝わります。

私 見

戦国時代において、失態を犯した武将が大名まで返り咲くことはほとんどありませんでした。秀久はそれに加えて、戦場から逃走し、臆病者と指差されるところにあったのです。その失った名誉を、自身の命を懸けた壮大なパフォーマンスによって回復させたことは、誠にアッパレ!だと考えます。

秀久の長所は、

・どん底まで落ちても、這い上がろうとする不屈の精神をもつこと。

・気持ちが入れば、勇猛果敢に戦うこと。

短所は、

・出世欲に飲まれて、周りを冷静に判断できないこと。

・気持ちが入らないと、立場もわきまえず逃げ出してしまうこと。

こんなところでしょうか。ただ、短所による失敗がなく、秀吉の下でのみ活躍を続けていたら、晩年の待遇は得られなかったかもしれません。その目線でみれば、自身の大失態を死に物狂いで乗り越えたことで、人生の大成功を得たともいえます。その原動力となったのは、君主への忠義か、はたまた出世への執念か。解釈が分かれるとことですね(*^^)v

さて、いかがだったでしょうか。皆さんの人生に役立つことはありましたか?

この記事を読んでいただきた方に幸福が訪れますように!!







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