相模の獅子!北条氏康とは!?

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さて、今回は常に自分を鍛え続ける名君をご紹介いたします!その生涯を一緒に学んで、人生のヒントを発見していきましょう!

北条氏康:信長の野望シリーズより

「大名たるもの、人より多くを身につけねばならぬ。」

英雄名

北条氏康(ほうじょう うじやす)

生 涯

1515年、北条氏の2代目:北条氏綱の子として生まれた北条氏康。祖父は、戦国の梟雄:北条早雲(伊勢盛時)でございます。北条氏はもともと伊勢の姓を名乗っておりましたが、関東支配の正当性を示すために鎌倉時代に関東を支配した北条氏にちなんで、父:氏綱の代に姓を変え、以後は北条氏を名乗るようになりました。

氏康の初陣は15歳のときで、元服直後に発生した扇谷上杉氏からの侵攻に、大将として迎撃に向かうというものでした。結果は大勝!その後も父とともに、次々と戦場に赴いて、戦功を立て続けていきます(父ちゃんと活躍(*^^)v)。

27歳のときに父:氏綱が亡くなり家督を相続しました。当時の北条氏は、古河公方の足利氏から関東管領の職に任じられており、更には婚姻関係も成立させていたことで、足利氏の親族として、国内において高い地位を得ていました。

1545年、今川義元が当主となって敵対するようになった今川氏が、甲斐(山梨県)の虎:武田信玄と結んで河東地域(南西側)に侵攻してきました。また、その動きに呼応した山内・扇谷の両上杉氏も、数万の大軍を率いて川越城(北東側)進出し、氏康は2方面からの侵攻を受け止めなければならない状況に置かれました。

考えた氏康は、武田信玄の調停による今川氏との和睦を受け入れることにしました。河東地域を今川氏に割譲することとなりましたが、結果として上杉氏の侵攻にのみ集中することができるようになりました。

翌年、80,000人の大軍を有する上杉軍に対して、わずか8,000人の兵士を率いて出陣した氏康でしたが、偽りの降伏をして上杉軍の油断を誘うと、夜襲をかけてこれを撃破することに成功しました。

「河越夜襲」と呼ばれるこの戦いは、後に日本3大夜襲に数えられており、これによって扇谷上杉氏は滅亡し、山内上杉氏も衰退していき北条氏の関東支配が確立しました。

氏康は、関東地域の支配をより強固にするために、まず妹を嫁がせていた足利晴氏を、北条氏への反意があることを理由に戦で降して幽閉。外甥の義氏を替わりに擁立することで、権威面での立場を盤石にしていきました。

加えて、内政面にも注力しており、領国内の検地を行って領民の負担を明確化することで統治を円滑にするとともに、税制の改革も行い中間搾取等を排除することで領民の負担を軽減するように尽力しました。

また、評定衆を制定して領内の訴えの処理に当たらせたほか、直接北条氏に不法を訴え出ることができる目安箱を設置することによって中間支配層をけん制し、北条氏の権力を拡大させつつ領民からの信頼を得る政策を行いました。

氏康が行った上記の政策は、のちに江戸幕府も採用していることから、北条氏の行政機関が、当時どれほど先進的であったのかがうかがえますね!(目安箱なんて今でもつかわれてるやん!(・。・;))

そして外交面では、山内上杉氏を保護した越後の龍:上杉謙信に対抗するため、今川氏、武田氏と婚姻による軍事同盟(甲相駿三国同盟)を締結します。

1560年、上杉謙信が怒涛の勢いで侵攻してきましたが、氏康は冷静に小田原城へ籠城してこれを退けるとともに、上杉軍の引き上げた後に失った領土をも回復させました。その後も、たびたび上杉軍の侵攻を受けますが、そのたびに退けることに成功しています。

1567年、今度は甲斐の虎:武田信玄が盟約を破棄して侵攻してきます。氏康は、今川氏とこれまで対立していた上杉氏とも同盟を結んでこれに対処しました。

この後も武田氏との小競り合いは続きますが、大病を患った氏康は政務から退き、1571年に57歳で亡くなってしまいました。

エピソード

・氏康が12歳のとき、武術訓練を見ている最中に気を失って倒れてしまいます。家臣の前で恥をさらしたと思って自害しようとする氏康を家老が止め、「初めて見ることに驚くのは仕方のないことですが、前もっての心構えは必要ですぞ」と助言しました。以降、氏康の心構えを大事にし、堂々たる態度を崩さなかったといわれています(この肝っ玉の強さよ)。

・氏康は、戦場で敵に背を見せたことはなく、背中に傷を負わなかったといわれています。イラストでは顔に傷(真正面からの傷)があるものが多いですね。

・「酒を飲むなら朝に飲め」と家臣に説いています。これは、夜は深酒しやすく失敗につながるからだといわれています。

・教養も高く、歌を詠ませれば有名な歌人をも唸らせたとも伝わります。

 

北条氏康:信長の野望シリーズより

私 見

文武に優れ、民からの信頼も高い氏康は国の代表として、とても輝きのある武将だと考えます。北条氏のために尽力し、戦においても逃げることなく、大きな敗北もない活躍をした氏康はまさに「相模の獅子」の異名を誇るにふさわしいでしょう!

氏康の長所は、

・統治においては、民の負担を明確・軽減する施策を多く行っていること。

・戦場においても、前線に立ち逃げることなく戦っていること。

短所は、

・国を守るためだが、組む相手を次々と変えていること。

・外交面で親族を使いすぎていること。

こんなところでしょうか。戦国武将の誰しもあてはまることですが、生き残るためには利用できるものは全て利用する時代ですので、短所の部分は仕方ないかもしれませんね。組織のトップとして、国の礎である民を大事にし、自ら責任を果たす姿勢は素晴らしいと思います!

さて、いかがだったでしょうか。人生の役に立つことはありましたか?

この記事を読んで頂いた方に幸福が訪れますように!!







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