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さて、今回は戦国の名門:今川家の最盛期を支え続けた軍師をご紹介いたします!その生涯を一緒に学んで、人生のヒントを見つけていきましょう!
太原雪斎:コーエーテクモゲームス
「驕れる人も久しからず。決してお忘れなきよう。」
英雄名
太原雪斎(たいげん せっさい)
生 涯(1496~1555年)
今川家の優秀な軍師として知られている太原雪斎は、はじめ九英承菊(きゅうえいしょうぎく)と名乗って、駿河の善徳寺に入寺し修行。その後幼い今川義元の教育係として尽力します(二人の出会いは1522年ころ。雪斎26歳、義元4歳くらい)。雪斎は、寺での修業時代から優れた才能を認められており、政治のみならず軍事にまで精通しておりました(噂を聴きつけて義元の父:氏親からスカウトを受けますが、2度も断ったともいわれています)。
義元の教育係となって久しくなった頃、義元の父や兄が次々と亡くなったことにより、今川家では義元と義元の異母兄との間で家督争いが勃発しました(花倉の乱)。学問や兵法に明るかった雪斎は、義元擁立の中心人物として手腕を発揮します。敵軍を一気に叩くべきと考えた雪斎は、各拠点に急襲をかけて流れをつかむと、対立候補であった義元の異母兄を自刃に追い込みました。これにより、義元が今川家当主となることが決定するとともに、雪斎は内政・軍事の最高顧問として重用されるに至りました。
義元は雪斎に全幅の信頼を寄せ、雪斎も今川家の隆盛に献身。この2人の関係は生涯崩れることはなく、何事も相談して決定していきました。中でも、武田家・北条家との3国同盟締結成功の裏には雪斎の尽力が大きかったともいわれております。また、軍師の立場をこなしながら、僧としても仏門を広めるための活動(領内の寺社・宗教の整備や、在来商人の保護等)も精力的に行っていました。
今川家の最盛期を支え続け、そして今川義元個人の精神的主柱でもあった雪斎でしたが、1555年に60歳で亡くなってしまいました。この死をきっかけに、今川家は急速に衰えていくこととなります・・・。
エピソード
・雪斎は、優れた人物であれば立場関係なく尊敬し、逆に堕落した者は立場関係なく非難するといった合理主義的な考えをもっていたとされています。
・その優れた能力から「黒衣の宰相」「軍師」「名補佐役」等の異名を持っている人物でもあります。
・武田信玄に仕えた隻眼の軍師:山本勘助とは親族説があり、また「今川家には、雪斎が必要不可欠である」と勘助にいわしめたとされています。
・もしも雪斎が生きていたら、義元は桶狭間の戦いで戦死することはなかったといわれるほど、その手腕は高く評価されています。
私 見
今川家のために、そして義元を名君にするべく尽力した太原雪斎。この2人の間にあったのは主従を越えた何かがあるとしか思えません。下剋上が当たり前の戦国において、最期までお互いを信頼し続けられることはどれほど珍しいことであったでしょうか。
雪斎の長所は、
・政治・学問・軍事すべてに精通していること。
・補佐役として適正があり、実行力も高いこと。
短所は、
・病気に勝てなかったこと。
こんなところでしょうか。やはり、国は一人では動きません。だれがトップになり、誰が補佐するか、誰が動くか・・・。今自分はどこのポジションにいて、どういった役目を果たすのか。そういったことを考えさせられる武将であると感じます。
さて、いかがだったでしょうか。人生に役立つことはありましたか?
この記事を読んだ方に幸福が訪れますように!
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