皆さん、こんにちは!こんばんは!うまぽよです!
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さて、今日は豊臣秀吉の生涯に多大な影響を及ぼした名軍師をご紹介します!
彼の生涯から、皆さんは何を感じますでしょうか。一緒にみていきましょう!
「秀吉様に天下を。我が命を懸けるにふさわしい。」
英雄名
竹中半兵衛(たけなか はんべえ)
生 涯
竹中半兵衛は、本名を竹中重治(しげはる)、または重虎といい、半兵衛とは通称のことでございます。半兵衛は、美濃(今の岐阜県南部)を治めていた斎藤氏の家臣:竹中家の次男として生を受けました。父を早くに亡くし、半兵衛は10代で家督を継ぎ、菩提山城の城主となって斎藤義龍に仕えて、1年後に義龍が死去すると後継者の斎藤龍興に仕えました。
しかし、龍興は信長から侵攻を受けているにもかかわらず、政務を疎かにして酒や女に溺れており、半兵衛が策略を駆使して織田軍からの侵攻を防いでいました。
そうした中で半兵衛が20歳のとき、弟の竹中重矩(しげのり)等わずか十数人で稲葉山城を乗っ取る事件を起こします。この稲葉山城は、織田信長が度々侵攻しても落とせなかった斎藤氏の主城でしたから、これを聴いた信長は美濃半分を条件に服従をもとめましたが、半兵衛はこれを断りしばらくして龍興に城を返して隣国の浅井氏に客分として迎え入れられました。
浅井氏に仕えて3年後、半兵衛の運命を変える出来事が。秀吉が信長の命を受けて半兵衛のもとに派遣され、織田陣営に勧誘しました。この時、半兵衛は秀吉の器量を見抜き、信長ではなく秀吉の家臣としてならば良いとして引き抜きを受けることとしました。
織田陣営に加入した半兵衛は、浅井・朝倉連合軍との戦いのときには、浅井氏に仕えたときの人脈を手に調略を仕掛け活躍、いくつかの城を寝返らせることに成功しています。秀吉が中国地方征伐の司令官となると半兵衛も随行して、宇喜多氏の八幡山城を策を用いて落城させ、信長からも高い評価を得ました。
この頃に、もう一人の名軍師:黒田官兵衛と知り合いになり共に秀吉を支えていましたが、信長の配下であった荒木村重が謀反を起こした際、説得に向かった黒田官兵衛が幽閉されるという事件が発生しました。黒田官兵衛は、自身の嫡男:松寿丸を信長に人質として差し出しており、幽閉されたこと知らず黒田官兵衛が敵方に寝返ったと判断した信長は秀吉に松寿丸の殺害を命じます。
しかし、半兵衛は黒田官兵衛を信じ、また松寿丸を討つことに苦悩する秀吉を救うために、その殺害を引き受けると密かに松寿丸をかくまって、城下で病死した子供を代わりに差し出したのでした。
このことは、主である秀吉にさえ秘密に行われたことで、のちに黒田官兵衛が救出されて忠義を貫いたことが証明されると、信長と秀吉は愕然としましたが、直後に半兵衛によりかくまわれていたことが公にされ、黒田の父子は生涯にわたり、半兵衛を恩人としたのでありました。
これより少し前、半兵衛は播磨(今の兵庫県西部)の三木城攻めの最中に陣中に倒れ、その身を案じた秀吉が京都で一時療養させましたが、回復に至ることはありませんでした。武将として陣中での死を願った半兵衛は、再度秀吉の陣へ復帰し、そのまま36歳という若さで陣没してしまいました。
病弱であった天才軍師は、死を前にしても秀吉に三木城攻めに係る策を練っており、その方向性は生涯の友であった黒田官兵衛に受け継がれていくことになるのでした。
エピソード
・半兵衛の容姿については、色白で女性のように細かったとされております。それを龍興に度々馬鹿にされたことが、稲葉山城の乗っ取りの原因になったのではないかともいわれております。
・半兵衛の死因については、肺を患ったものといわれております。
・黒田官兵衛が知行の増加を約束されたのに、なかなか実行されないことに不満を持ち、その文書を持って秀吉にクレームを入れに行ったときのこと。その話をそばで聞いていた半兵衛はその文書を燃やすと「このような文書があるから、不満をもつのだ。」といって官兵衛を驚かせたといいます。
・半兵衛はいつも安価な馬を買っていました。秀吉がその身分でそんな馬に乗らなくてもいいのでは?ときいたところ、半兵衛は「名馬を買えば、戦場で盗まれるのではないかと不安で鞍から下りられません。それは戦の際の判断力を鈍らせます。戦場では乗り捨てられるくらいの馬がちょうどよいのです。」 と答えたといわれます。
・数多くの計略を用いたことから、戦国時代の諸葛孔明「今孔明」という異名がついています。
私 見
早くに父を亡くし、人脈を大事にする秀吉と出会って仕え、様々な策を用いて敵を撃破、最期は陣中にて没する。その生涯においても、三国志の名軍師:諸葛亮と似ている武将だと感じます。
竹中半兵衛の長所は、
・多彩な軍略・計略を用いて、大きな結果を残す。
・心に決めた主人には、その生涯を通じて忠義を尽す。
短所としては、
・自分を使いこなせない人物、器量の狭いものに仕える気はさらさらない。
・病に侵されても、無理して体を動かす。
といったところでしょうか。短所もあまり短所でないような気もしますが・・。歴史に、もしもはありませんが、半兵衛の寿命がもう少し長ければ、豊臣政権もまた、長い隆盛を誇ったのではないかと期待してしまう自分がいます。
いかがだったでしょうか。皆さんの学びにつながることはありましたか?
この記事を読んでいただいた方に幸福が訪れますように!!