姫若子から鬼若子へ!長曾我部元親とは!?

皆さん、こんにちは!こんばんは!うまぽよです🐴✨

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さて、今回は四国を統一した名将をご紹介いたします!その生涯を一緒に学んで、人生のヒントを見つけていきましょう!

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「臣民の意見を広く聴き、政策に取り入れねばなるまいな。」

英雄名

長曾我部元親(ちょうそかべ もとちか)

年 表

まずは年表でチェックしていきましょう!

・1539年 長曾我部国親(くにちか)の子として生まれる

・1560年 初陣を飾るとともに、国主として後を継ぐ

・1568年 土佐(高知県)中央の本山家を滅ぼす

・1569年 土佐東部の安芸(あき)家を滅ぼす

・1574年 土佐西部の一条家を追放

・1575年 四万十川の戦いにて一条家に勝利。土佐統一を果たす

・1576年 伊予(愛媛県)南部に侵攻

・1578年 讃岐(香川県)に侵攻

・1582年 本能寺の変が発生。阿波(徳島県)を支配する

・1583年 豊臣秀吉の軍勢を讃岐で撃破

・1584年 讃岐を支配する

・1585年 伊予の河野家を従属させて四国統一。
     秀吉の四国攻めに敗退

・1586年 戸次川の戦いにて島津家に敗れ、長男:信親を失う

・1590年 小田原攻めに参加

・1592年 文禄の役に参加

・1597年 慶長の役に参加

・1599年 伏見にて亡くなる

生 涯

四国の覇者として知られている長曾我部元親は、1539年に土佐(高知県)の岡豊(おこう)に生を受けました。父である国親は意気盛んな武将でありましたが、元親は生まれつき色白で柔和な性格をしていたことから「姫若子(ひめわこ:軟弱者)」と呼ばれていました。

初陣も20代になってからと当時としては遅く、なんと槍の使い方を戦場で家臣に聞くという有様でしたが、いざ戦いが始まると自ら先頭に立って敵軍に突撃しました(ふぁっ!?スゲエ( ゚Д゚))。この勇猛さに驚いた家臣たちは、以降元親を「鬼若子」「土佐の出来人」と呼んで慕いました。

輝かしい初陣を果たした元親でしたが、これに安心したのか父:国親が亡くなってしまいます。若き当主となった元親は、祖父:兼序(かねつぐ)の仇である本山家との戦いを決め、これを滅ぼしました。

この結果、土佐に残る有力な勢力は、一条家と安芸家のみとなりました。元親は、一条家を婚姻による計略によって、安芸家を戦によって撃ち破り、1575年に土佐を統一したのでした。

土佐を統一した元親は、30代も半ばを迎えて意気盛んな時期でありました(まだまだ若いね!)。元親は土佐のみならず、四国を統一することを次の目標に定めました。これには、自分の野望はもとより、元々山が多い土佐には耕地が少なく、家臣たちに対して十分な恩賞を与えることが困難であったからとも考えられます。四国を得ることは、家臣たちの生活基盤を支えることと同義だったのです。

当時、阿波(徳島県)と讃岐(香川県)には三好家がおり、伊予(愛媛県)には西園寺家や河野家などがおりました。元親は、はじめに四州の境に程遠い要所を確保すると、そこを中心として各地へ侵攻していきました。

その途中、三好家から助力を請われた織田信長によって妨害を受けるも、「本能寺の変」によって事なきを得た一幕もありました。

信長が倒れると、本州はその後継者争いが勃発して混乱しました。元親は、最も天下に近い豊臣秀吉ではなく、柴田勝家や徳川家康などと結び、その間に四国統一を実現させて本州へと乗り出す戦略を組み立てていました。

しかし、元親が考える以上に秀吉は強く、阿波と讃岐を攻略しているうちに本州の混乱は終息していました。

1585年、元親はついに四国統一を成し遂げましたが、敵対した元親を秀吉は見逃さず「四国征伐」が開始されました。総勢11万を超える大群相手に元親は善戦するも、最後は降伏しました。

降伏した元親は、これ以降は秀吉に対してむしろ積極的に協力するようになります。この態度は、元親が秀吉の才能を認めたことを示すとともに、敗れたからには勝者に従うという潔さの表れと考えられます。加えて、土佐一国が秀吉によって安堵されたことへの恩義を感じたのかもしれません。秀吉としても元親の律義さを気に入っておりました。

大志を描き、家臣を大切にする理想的な国主であった元親でしたが、1586年に悲劇が襲います。秀吉の命令によって九州に出兵し、島津家との戦で大敗した際に長男である信親(のぶちか)を失ってしまうのです。

自身の後継者として、手塩にかけて育ててきた長男の死は、元親に暗い影を落とし、以前のような覇気を失わせました。その後、四男:盛親(もりちか)を後継者に据えることを固持して、反対する部下を処刑するといったことも行いました(名君がここまで落ちるとは・・・)。

豊臣政権の終盤には、2度に渡る朝鮮出兵も水軍の要として活躍した元親でしたが、徐々に体調を崩し1599年に62歳で亡くなりました。

長曾我部家とは?

長宗我部家は、古代中国の皇帝の子孫、または蘇我家の子孫ともいわれています。鎌倉時代の始めに、土佐(高知県)の長岡郡宗部郷(ながおかぐんそがべごう)に移り住み、地名から長宗我部の氏を名乗ったといいます。

1508年、19代目の兼序(かねつぐ:元親のじいちゃん)は、周辺の領主たちに攻められて自害してしまいます。兼序の子であった国親は、その10年後に城を取り戻して長宗我部家を再興しました。

1560年、国親の後を元親が継ぎ、1575年に土佐を統一します。1585年には四国まで統一しましたが、秀吉の侵攻によって領土を土佐一国とされてしまいます。

1599年、元親が亡くなり四男:盛親(もりちか)が後を継ぎます。しかし1600年の関ケ原の戦いにて敗北し、国を取り上げられて浪人という立場になってしまいます。

1614年、大阪冬の陣がはじまると盛親は豊臣方についてお家の復興を目指しましたが、大阪夏の陣にて豊臣方は完全敗北。盛親は処刑されてしまい、ここに長宗我部家は滅びたのでした。

エピソード

・元親本来の性格は、情け深く、身分を問わず様々な意見を聴き入れることができるものでありました。

・家臣に対して「一芸を極めよ。多芸を望むと中途半端になる」とのアドバイスを贈っています。

・交通整備、塩田開発やしっかりとした年貢制を定めることによって国政を安定させようと考えていました。また、半農半兵の「一領具足」を採用していたことでも知られています。

・ゲームでは姫若子のイメージなのか中性的な顔立ちの作品もあり、武器もイカリや三味線といった変わった武器を使用する作品もあります。

・秀吉から饅頭をもらったとき、元親はちぎって食べて残りを紙に包みました。なぜそうするのかを問われると「秀吉様からもらった物ですので、後で家臣にも分け与えます」と答えました。嬉しくなった秀吉は、残り全ての饅頭を元親に与えました。

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私 見

土佐⇒四国と次々に支配を広げていった勇猛さ、家臣をより良い待遇で迎えたいとする優しさを兼ね備えた元親。力強きリーダーに率いられた四国の兵士たちは、とても誇らしかったと思います!こんな上司が欲しい!w

元親の長所は、

・自ら敵陣に切り込む等、大将たる度量をもっていること。

・意見を広く聴き、内政にも力を入れて領民の生活安定を図ったこと。

短所は、

・長男が亡くなってから、人格が歪んでしまったこと。

・厳罰主義であったこと。

こんなところでしょうか。全盛期が大変素晴らしかったため、晩年の変貌ぶりにショックを受けます(でも、確かに自分の愛する子供が亡くなったら心が壊れちゃうよね・・・(/_;))。ただ、それだけ人に対して愛情が深かったということでしょう。人生において、夢に向かう熱さとどうにもできない儚さを感じさせてくれる英雄だと考えます。

さて、いかがだったでしょうか。人生に役立つことはありましたか?

この記事を読んだ方々に幸福が訪れますように!!

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