鬼なの?毛虫なの?佐竹義重とは!?

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さて、今回は戦国無双を地で行く猛将をご紹介いたします!その生涯を一緒に学んで、人生のヒントを見つけていきましょう!

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「我が強さは武のみにあらず!括目せい!」

英雄名

佐竹義重(さたけ よししげ)

年 表

まずは、年表で確認していきましょう!

・1547年 佐竹家に誕生。

・1562年 佐竹家当主の座に就く。

・1569年 常陸(ひたち:茨城県)の守護小田家を追放。

・1571年 北条氏政と対立。

・1579年 常陸の大半を支配することに成功。

・1584年 北条家に「沼尻の戦い」で敗北。不利な条件で和睦させられる。

・1585年 蘆名(あしな)家と協力して伊達家と戦を起こす。

・1587年 次男:義広を蘆名家の養子に出す。

・1588年 奥州の諸大名と連合して伊達家と戦い、敗北。

・1589年 「摺上原(すりあげはら)の戦い」で敗れ隠居する。

・1590年 豊臣秀吉に従う。

・1591年 息子:義宜と協力して常陸を統一。

・1600年 「関ケ原の戦い」で東軍に味方するように主張したことで義広と対立

・1602年 息子:義宜と秋田へ異動する。

・1612年 落馬して没する。

生 涯(1547~1612年)

その比類なき武力から「鬼」と恐れられる猛将:佐竹義重は、1547年に生を受けました。義重は、幼くして才能をみせており、10代前半にして父に代わって政治を取り仕切れるほどでありました。その名声は高く、京都にまで響き渡ったといいます。

若くして佐竹家の当主となった義重は、敵をことごとく撃破して積極的に領土を広げていきました。その勢いはあまりに強く、そして急であったために関東の支配を目指している北条家と激しく対立していくこととなります。1570年代は義重が有利な体制でありましたが、1580年代に会津の蘆名家が北条家についたことで逆転され、不利な状況へと追い込まれます。さらに、北では独眼竜:伊達政宗が台頭してきて、義重はまさに”前門の虎、後門の狼”という状況を味わうこととなってしまうのでした。

しかし、ここで諦めないのが義重。「伊達と北条が手を組めば、更に窮地に立たされる」そう考えた義重は、ライバル関係にあった蘆名家の内紛が起こると次男を送り込むことに成功、蘆名家での影響力を強めていきました(結果的に蘆名家を手中に収めようとしたわけやね)。また他の勢力とも婚姻や親戚関係を結んで着々と地盤を固めていきました。

それでも1589年、摺上原の戦いにおいて伊達家に敗れてしまい佐竹家は滅亡の危機となりますが、義重は長男:義宜に家督を譲ることで家中の結束強化・再編を図りました(但し、裏で実権を握っていたのは未だ義重であった模様)。

翌年の1590年には、戦国の出世頭:豊臣秀吉に従うことで、念願の北条家打倒を達成(伊達家も秀吉に従う形で天下統一)。54万石を得て滅亡の危機から脱出、さらに自身は快適な隠居生活を手に入れることとなりました。

戦場では鬼と恐れられ、頭もきれる義重でありましたが、その最期は狩りの途中で落馬するという、あっけないものでありました。

エピソード

・北条家との戦いの最中、真っ先に敵陣に突撃すると一瞬で7人の敵兵を倒したため、「鬼義重」「坂東太郎」として敵に恐れられと言われています。また、騎馬武者を斬った際には相手の兜さえも真っ二つになったとされています。

・愛刀家でもあり、刀の扱いについて深く知っていたともいわれます。

・義重は敷布団を使用せず、薄い布の上に寝ていたという記録もあります。

・義重は、領地の金山に最新技術を投入して経済基盤を安定させ、関東随一の鉄砲隊を所持していたといわれています。

・秀吉が没して関ケ原の戦いが起こった際、三成側に味方しようとする長男:義宜に対して、義重は徳川家康につくように進言。それがどっちつかずの状況を生み出してしまい、息子とともに秋田へと移されてしまいました。

・義重の兜は毛虫をモチーフに作成されたといわれており、「前にしか進まない(後退しない)」「刃(葉)を喰う」という意味が込められています(メッチャワッサーってなってて目をひきますよね!私は、最初ヘラジカの角が付いてると思ってたわ( ゚Д゚))

佐竹家とは?

源氏の一門が常陸(現在の茨木県)に住んだことから佐竹家が始まりました。平安時代の末期には、常陸北部の7郡を支配するに至りました。しかし、15世紀に起きた内乱によって、その後100年もの間、佐竹家は内部での対立を繰り返して勢力が弱体化してしまいました。

佐竹義舜(よしきよ:義重のひいじいちゃん)が15代当主になって、ようやく内部対立がおさまり、18代当主に義重が就くと周囲の敵を次々と滅ぼして常陸の大半を手中にしました。その一方で、勢力を拡大しすぎたことが東北の伊達家や関東の北条家に目を付けられることとなり、その後は思うように勢力拡大することができなくなってしまいます。

19代当主義宜のときには、伊達家と北条家の力が強まって、勢力自体を保つことすら困難になってしまいます。そこで義宜は、西部の雄:豊臣秀吉の傘下に入ることで、常陸の国を認めてもらい53万石の大名として地位を確立しました。

1600年の「関ケ原の戦い」では、石田三成に味方しましたが、西軍が敗れてしまったことで本拠地である太田城を離れて、秋田20万5000石へと移されてしまいました。

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私 見

敵陣に対象自ら突っ込み、多くの敵を倒していく無双の豪傑。と思いきや、婚姻や親戚関係を駆使した策略で味方を増やしてく謀略家でもある。義重には、戦国時代を生き抜くためのマルチな才能があったわけですね!

義重の長所は、

・戦場では自らが先頭に立ち、部下たちを鼓舞したこと。

・内政や外交の大切さも知っており、策略にも長けていること。

弱点は、

・権力を長く持ち続けたこと。

こんなところでしょうか。良くも悪くも義重は、自分が組織のリーダーであることを自覚して、自ら積極的に前に出る姿勢を崩さなかった人物だったのではないかと思います。まさに、彼の兜は彼自身を体現しているといえるでしょうね!現代の私たちも、人のせいにせず自分の行動に責任をもって生活していかなければならい・・・そんなことを考えさせられる武将だと考えます。

さて、いかがだったでしょうか。人生に役立つことはありましたか?

この記事を読んだ方に幸福が訪れますように!

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