江東の小覇王!孫策とは!?

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さて、今回は若くして怒涛の攻めを魅せた猛将をご紹介いたします!その生涯を一緒に学んで、人生のヒントを発見していきましょう!

孫策:三国志シリーズ

「この俺が孫家の名、天下に響かせてみせる!!」

英雄名

孫策(そんさく) 字:伯符(はくふ)

生 涯

海賊退治で名を馳せた英雄:孫堅の長子として、175年に生をうけた孫策。父が各地で発生した反乱鎮圧に出兵していたころ、孫策は母や弟たちと共に暮らしていました。孫策が十数歳の時、やがて親友であり右腕(さらにイケメン)となる有能な武将:周瑜(しゅうゆ)が訪ねてくるとすっかり意気投合。周瑜は大きな屋敷を孫策の一家に譲ると、家族同然の付き合いをしたといいます。

劇的な出会いがあれば、悲劇的な別れもあり。

191年、江東の虎と呼ばれた偉大な父:孫堅が戦死してしまいます。まだ10代であった孫策にはさぞ辛い出来事であったことでしょう。その後、孫堅の軍は解体されると、主家である袁術(えんじゅつ)のもとに吸収されました。

194年、孫策は袁術に対し旧孫堅軍の返還を求め、約1,000人の兵を得ることに成功します。数は多くありませんでしたが、その中には黄蓋(こうがい)や程普(ていふ)といった、歴戦の勇将たちが揃っておりました。孫策は戦に長け、活躍するものの、袁術からは戦功を認められない日々が続いていました。

その実、袁術からは「孫策ほどの息子を持ちたい」と言わしめるほど、その才覚を認めらていた反面、危険視もされていたのです。出世の約束を次々と反故にされながらも、孫策は自立する機会を地に伏せる虎の如くうかがっていました。孫策は人材を得るために時間を惜しまず使い、智謀や武勇に優れた者たちを続々とスカウトしていきました。

やがて、袁術が群雄:劉繇(りゅうよう)と揚州の支配をめぐって頭を悩ませていると、孫策は袁術に対し、劉繇と対峙している叔父の援軍に赴くことを申し出ます。袁術は少数である孫策が江東で独立できるとは夢にも思っておらず、これを快諾しました。叔父の軍と合流した孫策のもとに、親友:周瑜が駆けつけ兵力や情報を提供しながら、共に江東制覇に乗り出しました。その勢いは凄まじく、はじめ1,000人強しかいなかった孫策軍はドンドン増え続け、5,000人以上にまで膨れ上がりました。しかも、中身は智将、勇将揃い・・・末恐ろしいな。。。

195年、孫策は自身の優れた統率力と右腕:周瑜の智謀、各配下武将の優れた活躍によって、劉繇軍に大勝。長江から南の江東に強固な地盤を確保することができました。

196年、さらに領土を拡大することに成功します。その中で、元劉繇配下の猛将:太史慈(たいしじ)と戦い撃破、自らの部下として迎え入れました。後に、この太史慈は孫家きっての忠臣となります。

197年、孫策の勢力拡大を怖れた袁術は、一族の武将を用いて、孫策に備えようと画策しますが、孫策は武力をもって袁術軍を追い出し、ついに袁術からの独立を果たすのでした。

「今までの恩を仇で返しおって!おのれ孫策、許さぬぞ!」と、怒った袁術は計略等を用いて孫策を攻めさせましたが、孫策と配下の猛者たちには到底対抗できずに惨敗。名族:袁家の軍は、ことごとく敗れ去り、逆に天下へ恥を晒すこととなってしまうのでした。

江東の支配を宣言した孫策でしたが、その後も人材の重要さを忘れることなく、その確保に動きまくります。その中には、後に蜀の軍神:関羽を撃破する勇将:呂蒙らの姿もありました

孫策は、破竹の勢いをもって江東一帯を制覇しましたが、その苛烈な勢いがゆえに怨恨を抱かれ、各地に根強い抵抗勢力を抱えることにもなっていました。これに対して孫策は、自身に抵抗する者達への粛清を開始、地方豪族を始め多くの血が流れることとなりました。これが後に自分の死の要因となってしうのですが・・・。

199年、袁術が死去すると、旧袁術軍を取りまとめていた武将を計略と武力によって退け、その軍をも吸収し大陸でも有数の勢力となりました。その後も孫策は、優れた手腕によって数々の戦に勝利を続け、江東の五郡である江南の大部分をその支配下に治めることとなりました。

孫家は一大勢力の地位を確立し、自身も若く、配下武将は知勇に優れた名将揃い。まさに順風満帆、この時の孫策に不安な要素は見当たらなかったことでしょう。そう・・・この時までは。。。

200年、孫策が単騎で外出したとき、かつて自身が行った粛清した武将の客人達に襲撃を受け、放たれた矢が頬を貫きました。孫策は救出されますが、その傷は想像より深いものでした。

自身の死期を悟った孫策は、弟:孫権を後継者に指名し、その補佐を配下たちに願い出て死去。享年26歳。若き孫家の虎は、花火のごとく鮮やかな光を発した後、夜空へと消えていったのでした。

エピソード

・孫策は短気でしたが、容姿に優れており、笑い話を好む、快活な青年であったといわれております。妻は、「江東の二喬」ともいわれる美女:大喬(だいきょう)でございます。(・・・また、イケメンと美女コンビだと!?ぐぬぬ、祝ってやる!!(T_T))

・猛将:太史慈との戦に勝利し、「敗残兵をまとめて孫策殿の下へ参る」と申し出た太史慈に対して、孫策は喜んで縄を解き送り出します。配下武将らは、その申し出が嘘ではないかと疑いますが、孫策は信じて待ちました。その後、言葉通り兵をまとめてきた太史慈をみた孫策は、彼を丁寧に迎え入れると、役職を与えて重用したのでした。

・孫策が抵抗勢力へ粛清を行った背景には、江東を制した後に中原へと進出する計画があり、後顧の憂いを立つために行ったものともいわれております。

・袁術が自らを皇帝と名乗った後は、覇王:曹操に近づこうとしますが、両者の関係は芳しくなく、袁術の死後に崩壊してしまいました。

・孫策は、弟:孫権に対して「兵を率いて戦うことについては俺が上だが、家臣を用いて治世を行うことについては、お前の方が上だ」と評価していたと伝わります。

・孫策は人を殺せるくらい声が大きく、腕力も強かったことから「小覇王」の異名がつけられたともいわれております。

孫策:三国志シリーズより

私 見

26歳という短い生涯ではあるものの、凄まじい存在感を放つ孫策の生き様は多くの人の心を惹きつけます。自らが率先して動くとともに、周瑜ら配下をうまく用いたからこそ、孫家隆盛の礎を築ことができたのでしょうね。

孫策の長所は、

・自ら考え、自ら動くという凄まじい行動力をもつこと。

・物事の処理スピードが速いこと。

短所は、

・行動派の反面、せっかちな部分が強いこと。

・自身のおかれている状況を軽くとらえる等、思慮に欠ける部分があること。

こんなところでしょうか。もう少し、敵対勢力の処理の仕方や自信の行動を見直していれば、周瑜の智謀とも相まって三国志の歴史は大きく違っていたのかもしれません。ただ、やりすぎなくらいの行動力がなければ、孫家が独立勢力となることはなかったとも考えられますね。

さて、いかがだったでしょうか。皆さんに役立つことはありましたか?

この記事を読んでいただいた方に幸福が訪れますように!!

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