知勇兼備の「美周郎」!周瑜とは!?

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さて、今回は呉の国を支えた、イケメン大都督をご紹介いたします!その生涯を一緒に学んで、人生のヒントを発見していきましょう!

周瑜:三国志シリーズより

「我らが闘志、炎となって敵軍を焼き尽くさん!!」

英雄名

周瑜(しゅうゆ) 字:公瑾(こうきん)

生 涯

周瑜が生まれた周家は、後漢朝における名家で、父も県知事の役職を務めていました。若い時から音楽に通じており、さらに成人すると外見も立派なイケメンとなりました(なっ、音楽ができてイケメンだと・・・!?)。

江東の虎:孫堅が、暴虐の徒:董卓打倒の連合軍に参加した時に、彼の息子:孫策の名声を聞いた周瑜は駆けつけて、孫策と面会しました。同い年で話も合う二人はどんどん親交を深め、周瑜は大きな屋敷を孫策の一家に譲ると、家族とかわらない付き合いをしたと伝わります。

194年、袁術の傘下に入っていた孫策が軍を挙げると、誘いの手紙を受け取った周瑜は、兵士を連れてこれに従いました。周瑜と孫策が次々に敵方を撃破していった結果、孫策の軍勢は数万にまで膨れ上がり、孫策は自力でもっと領土を得ることができると判断すると、その間、周瑜には守備を任せました。

袁術は、周瑜を配下に迎えようとしましたが、周瑜は袁術に見切りを付けると孫策の下へと走りました。

孫策は周瑜を歓迎し、役職と兵士2,000人、騎馬50匹を与えました。さらに軍楽隊や住居も与えるなど破格の待遇でしたが、孫策はかつて周瑜に受けた恩に報いるためには、これでもまだ足りないと述べています。人々は当時24歳の若い周瑜を「周郎」と呼び称えるようになり、世の名声をグングン獲得していきました。

199年、孫策は荊州の攻略を考えるようになり、周瑜をその攻略に当たらせました。攻略の中で、大喬(だいきょう)・小喬(しょうきょう)という「江東の2喬」と呼ばれる絶世の美女姉妹を得ました。孫策は姉の大喬を、周瑜は妹の小喬を妻に迎えることとなりました。 イケメンと美女のカップルがここに成立したわけですね!!(なっ・・このっ・・オメデトウゴザイマス(ー_ー)!!)

順調に物事を進めてきた周瑜に200年、試練が訪れます。親友であった孫策が襲撃に遭い、その傷がもとで急死してしまったのです。そして、まだ若い孫策の弟:孫権が後継者となります。周瑜は軍勢を引き連れて葬儀に参加すると、そのまま留まり、孫家古参の臣下たちと様々な諸務を取り仕切ることとなりました。

この頃、臣下や客人の中には後を継いだばかりの孫権を軽んずる者も多くいました。そこで周瑜は、孫権に自ら率先して臣下の礼を取って規範を示すようにし、周囲もそれに次第に従っていくようになりました。また同時期に、周瑜は孫権の王者としての適格性等を列挙して、後の自身の後継者たる智将:魯粛(ろしゅく)を説得し、仕官させています。

202年、北の大勢力を打ち破り、勢いを増す曹操から孫権の元に人質を送ってくるよう命令が発せられました。孫権は臣下達に議論をさせましたが、古参の参謀達でさえしっかりとした意見を出せずにいました。その中で周瑜は、人質を送らずこのまま力を蓄えて天下の流れを見極めるべきですと述べ、孫権はこれに従いました。

それからも、周瑜は異民族討伐や他勢力からの迎撃戦等様々な場面で活躍を続けていきます。

208年、孫権はこれまでの功績を高く評価して、周瑜を前線総司令官に任命しました。

208年9月、ついに曹操は荊州に侵攻して支配勢力を拡大させ、孫権の領地の目前にまで迫ってきました。これを受けて、孫権陣営では曹操に降伏するか戦うのかで激しい論争が発生していました。曹操には数万という兵士が有り、荊州の水軍をも手に入れていたために、孫権陣営では降伏論者が多数派だったといわれています。周瑜は前線の守備にあたっていましたが、その知らせを聞くと急いで本拠地へ帰還、徹底抗戦を主張し、曹操の軍が抱える数々の問題と、自分たちの軍が有利な点を孫権に説明しました。これによって、孫権は曹操と戦うことを選択するのでした。

さっそく孫権は3万の精兵を周瑜らに与え、曹操から逃れてきた劉備と協力して、赤壁の地で曹操軍を迎撃させました。周瑜の予想通り、この時の曹操軍は軍中に疫病を抱えていて、一度の交戦で曹操軍は敗退、長江の北岸に引き揚げることになりました。

次なる作戦として、周瑜らは南岸に布陣すると、宿将:黄蓋(こうがい)の進言を採用して曹操軍の艦船を焼き討つことを考えます。それは、降伏を偽装して曹操軍に近づいた黄蓋が曹操軍の船団に火を放つというものでした。その計画は見事成功し、火の付いた曹操軍の船団は瞬く間に燃え広がり、紅蓮の炎が曹操陣営を焼き尽くしたのでした。甚大な被害を受けた曹操軍は完全撤退せざるを得なくなり、孫権・劉備連合軍の大勝利となったのです。

その後も周瑜は、味方武将を救出しながら敵方に大損害を与えたりと活躍しましたが、荊州攻略の折、曹操軍との戦いの中で、わき腹に矢を受けて重傷を負ってしまいます。重症の体になっても周瑜は、自身の考える天下のあり方に挑戦し続けました。

しかしその奮闘むなしく、210年に36歳という若さで亡くなってしまうのでした。

エピソード

・孫家との信頼関係は長く続き、孫権の母親である呉氏も孫権に対して、周瑜を兄として敬うように命じていました。また、周瑜亡き後の229年に、孫権が呉の皇帝に即位した際、「周瑜がおらねば私は皇帝になれなかったであろう」という言葉を残しています。

・赤壁での戦いの後、周瑜は孫権に、劉備を上手く取り込もうと献策しましたが、孫権は曹操に対抗するため、一人でも多くの英雄が必要な時期だと判断して、周瑜の提案を受け入れなかった伝わります。

・周瑜は、大陸の北半分を領土とした曹操が赤壁での大敗の後、軍事行動を起こせないと予測。その間に大陸の西側:益州までを占領し、大陸の南半分を孫権が支配した状況で、曹操を一気に攻めるという「天下二分の計」を立てていました。孫権の同意まで取り付けていましたが、その遠征の準備中に急逝してしまいました。

・人の心を掴むことも得意で、古参の将軍:程普(ていふ)と馬が合わず、若輩者と侮辱されても、周瑜は先輩である程普を立て続けました。その結果、程普もその態度に感心し、以後は周瑜を敬ったといわれています。

 

周瑜:三国志シリーズより

私 見

優れた統率力と判断力、敵軍に立ち向かう勇気と人心をつかむ人柄、膨大な事務処理もこなす知識、音楽もプロ、さらにイケメンで嫁さんも美人・・・こんな奴いるのか、いったいどこの主人公だよおい。と感じてしまうほど実に羨まs・・・いや、優秀な人物ですね!

周瑜の長所は、

・知力・勇気・統率、指揮官に必要とされる能力が備わっていること。

・主君を敬い、最期まで忠実な家臣として、任務をこなし続けたこと。

短所は、

・嫁が美人すぎること(曹操が周瑜の嫁を欲したため、ブチ切れて赤壁の戦い開戦を決めたとも言われている)。

・他者に尽くしすぎる反面、自分の体調が悪くとも無理して動いてしまうこと

また欠点たる欠点がみつかりませんでした。これ欠点というか長所じゃないのか・・・まぁいいか。とにかく、こんな人が自分の組織にいてくれたら最高ですよね。良い目標・メンターとして自分を高められそうです。ただ、無理をしすぎる姿勢は注意しなければなりませんね!

さて、こんなところでしょうか。皆さんの人生に役立つことはありましたか?

この記事を読んでいただいた方に幸福が訪れますように!!







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